ある日、突然

宮城県の石巻に行ったときのこと。
宮城県は漫画家の石ノ森章太郎さんの出身地で石巻には石ノ森さんを記念する会館もあった。そこの鉄道、仙石線の車体に石ノ森さんのキャラクターが描いてあった。キャラクターには色が施されていた。それがはっきり言っておもしろくない。色のバランスがわるい。
そのとき、長年の疑問に解決の糸口を見つけた。長年の疑問とは絵本と漫画の違いとはなんだろう。絵本作家と漫画家の違いはなにか。
すぐれた絵本作家はみんな独特な線をもっている。長新太さん、五味太郎さん、佐野洋子さんなど一流の絵本作家は、その線画を見るだけで長さん、五味さん、佐野さんとわかる。そんな独特な線をもっている。
つぎが絵本作家と漫画家の違い。絵本作家は色彩感覚の独自さ、その人なりの色づかいというものを持っている。ここがポイント。長新太さんや佐々木マキさんたちは漫画でスタートした。といっても、すべての漫画家がすぐれた絵本作家になれるわけではない。絵本作家にとって独自な色彩感覚が決定的要因になる。ここに絵本作家と漫画家の大きな違いがある。
そのうえ絵本作家は文章も漫画家とことなる絵本ならではの独特な文体を要求される。詩でもなく散文でもなく、読者の想像力をかきたてる省略と飛躍を合わせもった文章。絵を見ずに文だけを読むとなんだか変な感じがする。にもかかわらず絵を見ながら読むと何の違和感もない。絵本作家はそんな文章を書かねばならない。
それに絵本は黙読より音読。文にその作家ならではのリズムがなければ話にならない。
線画の独特さ
色彩の独自さ
省略と飛躍のきいた文章の独特さ
リズム感のある文の独自さ
 
すぐれた絵本作家はこれら4つの力を最低もっている。

更にブックデザインも重要。デザイナーとしての力も必要だ。絵と文に関する総合的な才能をもっていなければならない。だから有力な絵本作家がなかなか生まれないわけです。
そして更に、次々に更にで恐縮ですが、長さんにしても五味さんにしても有力な絵本作家は、ユーモア・ナンセンスというベクトルはもちろんのこと、同時に叙情的な力も持っている。すぐれた絵本作家はユーモア・ナンセンスと叙情性という、かなりひろい空間を振り子のように行き来できる。だから作品に幅というか力強さが生まれる。自由自在な精神の動きはこんなところから生まれてくるのではないか。
一般には、絵本というと叙情性が主になってしまう。叙情的な絵本をかく作家が絵本作家だとおもっている人が世の中にはたくさんいる。ところが叙情いっぽんやりでは絵本作家としての振り幅が小さくなり、しだいに動きがとれなくなる。その結果、表現の幅がせまく単調になってしまう。そんな気がする。

石巻のあと、福岡の学校図書館司書の方とゆっくり話す機会があった。その人が「わたし、司書の仕事をはじめたころは長新太さんの『キャベツくん』をあまり好きじゃなかった。というか何がなんだかわからなくて、この人なにを言いたいのだろうとおもっていました。ところが、子どもたちがあんまり喜ぶものだから、何度も何度も読んであげていたら、ある日突然目からウロコというか、何かがはじけたみたいになって、その日から長さんのすべての絵本がすばらしく輝いてみえるようになった。ああ、子どもたちはこんな心持ちで長さんの絵本を喜んでいたんだと。遅ればせながら実感しました。その日の前と後とでは絵本を見る目が変わりましたね」と話してくれました。
その話を翌日、親しくしている本の問屋のKさんに話したところ「有川さん、わたし、この仕事を20年やっています。実はわたしも5年くらい経ったある日、突然、同じような経験をしたんです。それから長さんの絵本がほかの作者の絵本とはまったく違ってみえてきた」と言う。
なにをかくそう、かくいうぼくももまったく同じような経験をしていた。今33歳になる娘が3歳の頃、日曜日の昼下がり、娘を膝にのせ、当時旺文社から出ていた長さんの『ゴリラのビックリばこ』を読んでいた。すると台所で昼食をつくっていた家内がたのしそうに笑う。「どうしたの」と聞くと、「だって、あなたがさっきから読んでいる絵本がおもしろくて」と言う。『ゴリラのビックリばこ』、家内はおもしろかったんですね。もちろん娘も。でも実をいうと、その時ぼくにはそれほどではなかった。いや、見栄をはってはいけませんね。なにがおもしろいのか、さっぱりわからなかった。子どもたちにこわれて『ゴリラのビックリばこ』や『キャベツくん』を読んでいるうちに、同じくある日、突然やってきたのです。その日が長新太開眼の日になった。
高校のとき、バッハやモーツァルトを  
聴いたときも同じような経験をしたことがあった。FM放送を聴いていたある日、突然バッハとモーツアルトのすべての曲が輝きだした。それ以来の経験でした。 

その後『ウォーリーをさがせ』が流行っていた頃だから20年ぐらい前かな。家の近くの森を家内と息子と犬を連れて散歩していた。ぼくが家内に「ウォーリーが、売れて売れてすごいんだ」と話したら。息子がうしろからぼくの服をひっぱって「おとうさん。絵本が売れるすごくいい方法があるよ」と言う。思わず散歩の足を止めましたね。「それはどういうことでしょう。おきかせください」と息子に言ったら「おとうさん、うちにスタコラゴリチャンていう絵本があるでしょう。あの人にかいてもらったら。きっとうれるよ」と言う。
そこでぼくが「こうた、あのスタコラゴリチャンの絵本はどこの出版社から出ているのか知っているかい」と聞くと「えっ、その言い方は絵本館なの」「そうだよ」「じゃ、そんなに売れてないんだ。信じられないなあ、あんなにおもしろいのに」と言う。息子のいうスタコラゴリチャンという絵本が『ゴリラのビックリばこ』です。
そのあまりの驚きをみて、大人と子どものあいだにある大きなギャップを感じました。

たとえて言えば人間生まれた直後は海の上をただただ漂っているようなものだとする。それが大人になるにしたがって、なにごともアップグレードして水面から浮上していくと普通は考える。体は大きくなるし、知識は増えるし、腕力も強くなるし、お金も自由になる。子ども時代とくらべると、大人になるにつれ、なにごともアップしていくと考えるのは自然です。
ところが、レベルダウンしているものもあるのではないか。知らず知らずレベルダウンして水に潜っているものもある。
意味とか理由とか、条理の世界、因果律の世界。それとはまったく無関係な世界。あるいは徹頭徹尾役に立たない、ためにならない世界。にもかかわらず何となく気になるし、なによりも心ひかれる。そんな世界であそべる力を子どもはもっている。
『キャベツくん』で目からウロコの司書の方や、問屋のKさん、30年前のぼくは長新太のナンセンス・ユーモアの力で水面に顔をだせた。柔軟で軽やかな感触を得て、その喜びを知ることができるようになった。水面をフラフラユラユラ漂う赤ん坊のように。
 長さんの絵本を読んでピンとこないということは、水中にいるということなのかもしれない。そんな大人たちに「水面までまた出ておいで」と、生まれた時のようなイイカゲンな幸せ感をおしえてくれる絵本。とりあえず長新太に感謝、そんな絵本に感謝ということです。
もちろん、長さんに限らず五味太郎さんや佐々木マキさん、高畠純さん、いとうひろしさん、長谷川義史さんの絵本でも同じことがいえる。あるいは内田麟太郎さんの『ぶきゃぶきゃぶー』『おばけれっしゃ』などもそんな絵本です。これらユーモラスでナンセンスな絵本には、だんだん沈んでいってしまう大人を水面に「またいらっしゃい」と、もちあげてくれるウキワような力、浮力があるのではないか。
そういう意味でも得がたいものです、絵本は。

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