おぬしやるな!

世のなかには、じつに多くの「立場上言えません」があります。養老孟司さんをまねて言えば、われわれは目に見えない常識の壁にかこまれ生活しています。
ある考えが常識として定着しだすと人間考えがだんだん固まり、ものごとをいろいろな角度から見られなくなる。年齢とともに知識がふえればふえるほど、常識がおおいかぶさって人間をはがいじめにするのかもしれません。
「そんなのあたりまえでしょう」とか「まえからそうなんですよ」とか。これを平気で言うようになると、その人の目線より常識の壁が高くなった証拠です。すると次第に「立場上言えません」とおもう人もふえてきます。
漱石先生のむかしから世のなかは「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」となっています。それにしてもさすがうまいことを言うものです。
なけなしの頭を使いあれこれ考えたあげく意見を言う。意見とは「わたしはそうはおもわない」と言っているようなものです。するとなにかと人間関係に角が立つのはあたりまえ。自分の意見を言うときは、まわりの人間関係に「角が立つ」のを覚悟しなければなりません。これはむかしも今も変わらない。いまだ漱石先生の価値が衰えないところをみると、むかしも今も世のなかの中味におおきな変化がないということです。
「世のなかは百年変わらず、恋愛も千年変わらず、ゆえにいまも夏目漱石あり、紫式部アリ」ということでしょう。
そうなると、なにごとも馬耳東風「はい、はい」と受け流してボッーと一生すごせば、それはそれで人生これ無事名馬ということになるのでしょう。
しかしこの「立場上いえません」はわれわれにとって一番知りたいことでもあります。いや知らないと人生に大きな禍根を残すことになるかもしれません。ほおってはおけません。政治・経済・外交・金融・医療・食・教育と、さまざまなところに「立場上言えません」は存在します。ジャーナリストのみなさんしっかりしてほしいですね。
もちろん子供の本の世界にも「立場上言えません」はあります。
その最たるものは「感想文は本嫌いを育てる」です。もっといえば「あなたの子供を本嫌いにしたければ読書感想文、ぜひおすすめです」になります。
これは自信をもって言えます。みなさん、自分の胸に手を当てて考えてみてください。
なにかをして、その感想を文章にする。
食事をして、食後感想文。映画を見て、野球をして、デートをして、家に帰って感想文。どうです。やってみたらすぐわかる。いや、やってみなくてもわかるでしょう。「いやだ。ごめんこうむりたい」って、だれもがおもう。
それを小学校一年生に読書感想文です。また胸に手を当てて考えてみてください。入学して四月は何かとばたばた落ち着かない。やっと学校に慣れるのもゴールデンウィークあけ。それから六月上旬、七月上旬二ヵ月半で夏休み。たった二ヶ月か三ヶ月で読書感想文。
「てにをは」もはっきり分かっていない。「は」はなぜ「ハ」とも「ワ」とも、読むのか分かっていない。にもかかわらず読書感想文です。
むかしわたしが子供のころ花菱アチャコという芸人が大阪にいました。そのなつかしいアチャコさん流にいわせてもらえば「無茶苦茶デゴザリマスルガナァ!!」です。
還暦目の前のわたしがいまだに「ず」と「づ」の書き分けができずにいる。ところがそのわたしも「ず」と「づ」を読むのはあたりまえですがこまらない。ここが重要なところです。かくのごとく読むのと書くのはまったく別ものです。
岩波古語辞典を編纂した国語学者の大野晋さんは「小学校三年ぐらいまではもっぱら読むだけでいい。字形がなんとなく頭に浮かぶようになってから書けばいい」。字形が明確にあるいはおぼろげにでも子供の頭に浮かぶようになってから書く練習は始めればいい。そうですよね。字形がまったく頭に入っていないから書き取りの練習は手本をちょっと見ては書き、またちょっと見ては書く。この繰り返し。苦行でした。
この教育方針、いってみれば臥薪嘗胆、刻苦勉励、苦あれば楽なしというものです。まあ、いずれにしても明治の文部省が決めた「読み書き同時」という方針いまだ改められずにいる。明治・大正・昭和・平成、一度決めたら梃(てこ)でも動かない。まさしく官僚の鑑です。

それにしてもなぜ感想文なのでしょう。
遠足に行って、社会科見学をして、もちろん本を読んで感想文。どうして文部省はそんなに子供の感想を聞きたがるのでしょう。なにかをしたら幾ばくかの感想を持つ。それが立派な人間への第一歩だとおもっているのでしょうか。
OPINIONが意見。ところがSENTIMENTALの名詞SENTIMENTには感情の交じったという括弧つきですが意見と感想の二つがあります。もちろん感傷もあります。明治の文部官僚が感想と意見をごっちゃにしたのではないか。
感想から立派な意見はうまれるとおもった。ふとこころに去来した思いをしたためたのが随筆。随筆はある個人の感想です。ふと心に感じた思いが感想。だから感想は個人個人がなんと言おうと、どう書こうと一向に構わない。つまり統一見解というものがない。それが感想です。
意見はある物事についての価値判断や評価、ものの見方や考え。意見は博学多識なバックグランドと筋道だった論理的展開がなくては生まれない。OPINIONです。そうやすやすと子供が踏み込める領域ではありません。だいたいいままで聞いたこともない読んだこともない意見を理路整然と分かりやすく表明できる人が日本中探して何人いるでしょう。
だから小中学生にいっぱしであろうがいっぱしでなかろうが意見を期待するのはまったくの見当違い。そんなことを教師や大人が学校教育に期待し、子供を指導するようになった。そのため近代になると巷に知ったかぶりの鼻持ちならない紳士淑女の卵があふれることになった。近代とは義務教育のはじまった明治以降のこと。子供もいずれ大人になる、いやなった。高学歴社会は「剛毅朴訥仁にちかし」の仁などどこかに吹き飛ばしてしまった。
いまや感想と意見がごっちゃの世界。感想を意見と取り違え、自分の考えを固めている大人はかなりの数になる。ゴシップ週刊誌やテレビのワイドショーの隆盛をみれば、そういった癖を身に付けてしまった人の人口は馬鹿にならない。小泉元首相の郵政民営化選挙でも日本中が感想だらけ。もとより週刊誌やテレビは感想を意見に取り違える本家本元、刺客騒ぎというゴシップが登場するにおよんで本領発揮。意見などどこ吹く風メデイア中がこれ感想だらけ。一気にヒートアップ、感想だけの選挙なった。
そういった感想を意見と取り違える精神風土を築くのに最もちからがあったのが国語教育ではないかとおもっています。
教室で主人公の気持ちや作者の考えを推測する。熊さんの気持ちはもちろん、夏目漱石の考えでさえだれも知らない。にもかかわらず先生は知っている。どこまでいっても推測の域は出ない。それなのにその推測の上に立って生徒それぞれの感想を求める。さも真実はわが手中にありという態度で最終的には統一見解に導く。
ここにはどうにもならない二つの矛盾がある。
まず推測を真実のごとくカモフラージュして授業をすすめていること。「ではないか」を「だ」と言い切って授業は行われている。知恵とは「物事の道理を理解し、是非、善悪を判断する能力」。「物事の道理」をいきなり勘違いから始めるのですから「理解」に至る日など来るわけもないし、子供の頭が活発になるわけもない。
二つ目、前にも書いたように感想は個々みんなどう思おうがどう感じようが勝手です。感想の勝手気ままさと個々人の感想を統一見解に導く行為はまったく相容れない。にもかかわらず教育は勝手気ままを無視し統一見解にむかう。
吉田兼好も徒然草の冒頭「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば」と書き起こしている。「心にうつりゆくよしなしごと」は感想です。清少納言は「春は曙」。この断定も感想です。しかし春は夕暮れでも春は夜更けでも、なんでもよい。なにがよいか人それぞれ勝手。この勝手気ままこそが感想の持ち味。ふと心に感じた思いが感想、それなら日本は枕草子や徒然草のむかしから感想は得意中の得意。国語教育はこの感想に本来備わっている勝手気ままさを無視し、ひとつの見解を無理やり押しつけてきた。生徒が国語の授業になんとなく不自由な気持になるのはあたりまえ。だから本を敬遠する子供が増えるわけです。
ではどうすればいいか。
子供はすべからく、よく聞き、よく見る。その姿勢を身に付けること。それができたらしめたものです。具体的にいうと国語では感想ではなく文章の要約。要約をすれば文章の一番言いたいところがどこあるのか。また文章の論旨を的確につかむ力もつく。そのうえ人の話の勘所を正確に聞き取ることもできるようになるでしょう。
よく見る、よく聞く。その姿勢から考える力は生まれる。よく見、よく聞けば物事にたいする認識力がつく。感想は感傷的な心もちと隣りあわせです。物事を的確に認識する力にとって一番のさまたげは感傷です。それを「情に棹させば流される」といったのでしょう。
ここで絵本の話になります。ウェットでセンチな世界と程遠い、ドライでユーモラスな絵本。そんなユーモラスな絵本がもつ省略と飛躍のちから。そこでは自分で読むにしても読んでもらうにしても、読者が自分の力でその省略と飛躍をおぎなっていかねばなりません。その受身ではない能動的な心の動きのなかに、よく見る、よく聞くという姿勢が芽生えてくるのではないでしょうか。ユーモラスな絵本の力。あなどれません。
漱石先生にこんなユーモラスな絵本をみせたかったものです。

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