車のハンドルには、遊びというものがあります。遊びという余裕・ゆとりがあるお陰で、車はまっすぐ走ることができます。これがないと車は事故だらけになるでしょう。
精神にも、遊びが必要です。遊びがないと生活はギスギスします。他人とすぐぶつかり、トラブル続発です。
気むずかしく、ギスギスした仏頂面の大人がいる家庭や会社、考えただけでぞっとします。
それにひきかえ、あそびやユーモアの感覚をもった人がいれば、家庭も社会もどれほど明るく豊かなものになることか。
日本は平安時代『梁塵秘抄』の昔から、「遊びをせんとや生れけむ」と言ってきました。
そもそも私たち人間は、遊びをするために生まれてきたのかもしれません。日本人は、もう少し伝統を気にしたほうがよいのではないでしょうか。
俳画というものがあります。
芭蕉も描いたそうですが、完成者は与謝蕪村です。
学習院大学小林忠先生は、「ほろにがい人生の悲しみ、心のそこからわきでる感情、それをおもてだっては表現しない日本人の感性、その境地を蕪村は俳画の世界で表現するようになった。その俳画には“ベタづけ”と“匂いづけ”という言葉がある。蕪村以前の俳画は、絵と句のつながり方が直接的だった。そういうベタづけをきらって、蕪村は匂いづけという絵と句をはなしてそこをやわらかく連想でつなげるようにしている。蕪村の俳画は絵と句が響きあう、そういうやわらかい構造になっている。見る人が読みとるたのしさ。見る人が参加していく参加型のジャンルを創りだした。省略のきいた絵で句の意味と付かず離れずあらわされている」と書いています。
これはまさに絵本にたいする言葉です。
今までの絵本は、多くがベタづけでした。絵と文のつながり方が直接的だった。直接的とは、絵が文の説明になっている、ということです。
つぎにあらわれたのが、文と絵をはなしてそこをやわらかく連想でつなげる匂いづけ絵本の登場です。
ベタづけでは、「子どもはわからないことがたくさんある。だから説明してあげねば」と、そんな気持ちでつくった絵本が多い。なににつけ絵が説明的になると、なによりも大切なおもしろさが出てこない。読者にとって、読みとるたのしさがなくなる。
新しく登場した匂いづけ絵本では絵と文をはなし、そこを読者が連想でつないでいく。そういった絵本は、俳画と同じく絵と文が響きあうようなやわらかい構造になっている。読者が読みとるたのしさ、参加する心地よさがある。
文と絵をはなした絵本は、参加型のジャンルとなっている。省略のきいた絵が、文の意味と付かず離れずに表現していく。
文と絵がはなれた絵本でも、おもしろいが第一。子どもが感覚的、直感的におもしろいと感じなければ、想像もなにも始まらない。絵本を選ぶ時にはなによりも「おもしろい」が大事です。
子どもがどんな絵本をおもしろがるかは分からない。それが普通です。そこでは肝に銘じなければならないことは選んであげる大人がおもしろいと思った絵本を、読んであげることです。自分自身がおもしろいとおもわなかった絵本を読んであげるのは、考えてみるとおかしい。
子どもが連想する、想像するたのしさを感じとったら、読書はたのしいものになるとおもいます。そのためには、作者の方も絵と文を少しはなし、その微妙な距離感を演出する。すると読者が連想でつないで、読みとり参加していくたのしさが出てくるのではないでしょうか。
文と絵をはなす匂いづけといえば、五味太郎さんの『とりあえずごめんなさい』『とりあえずありがとう』という絵本があります。
「ごめんなさい」や「ありがとう」は、深々と心から「ごめんなさい」だったり「ありがとうございます」と言うのが普通です。
「とりあえずごめんなさい」とか「とりあえずありがとう」などと中途半端で曖昧な言い方では、誠意が感じられないと叱られても致し方ありません。「そんな不誠実な言い方を絵本で教えるとはけしからん」という叱責は、ごもっともではあります。
ところが、先ほどの匂いづけ絵本のことを思い出してください。
『とりあえずありがとう』では、大きな船から扇風機でヨットに風を送っている人がいる。ヨットの人は「ぜんぜん進みません、けどとりあえずありがとう…!」と言っています。
文と絵に距離をとる。絵は文の説明にはなっていません。そのために読者は「とはいってもお気持ち重々わかります。ここでは相手の気持ちを思って、とりあえずありがとうと言っているんだろうな」と連想でつないでいきます。この状況なら「とりあえず」と「ありがとう」が結びついても、何もおかしくありません。こんな微妙な心の動きを感じとることができるように『とりあえずありがとう』はなっています。情報は豊かだけれど、省略のきいた絵のなせる技です。
そうやって画面ごとに「たぶん、そうだろうな」と思いながら、読み手は絵本に自然と参加していく。絵本に参加するたのしさが生まれてくるのが、この種の絵本の特徴だと思います。
連想する力、参加する力、こういった能動的な心のあり方がでてくると、本を読むたのしさにもつながっていくのではないかと思います。
一見不誠実にきこえる「とりあえずありがとう」や「とりあえずごめんなさい」に絵がつくと、不思議な味わいが生み出される。ここにあたらしい絵本の魅力があります。
文や言葉だけでは表すことができにくいことでも、絵の力をかりると格段に表現の幅がひろがっていきます。それにつれて読者の感ずる力も増していくものです。
五味太郎さんは、なるべくなるべく軽やかな心の動き、気持ちのもち方を期待しているのだと思います。
そう、この文の題は奇想天外でした。
奇想天外といえば、きむらよしおさんの『ゴリララくんのしちょうさん』。
いきなり広場の噴水のうえに、まっくろで大きなからだのクジラが立っています。よりによって直立です。街中おおさわぎ。でも、ゴリララくんのしちょうさんは「クジラはなにもいっていないし、ちょっとまってあげたらどうかね」と動じません。
なにをきかれても、クジラはなにも答えません。クジラはだまって流れる雲をみています。でも、ゴリララくんのしちょうさんは、「クジラにもなにか考えがあるのでしょう」と言います。
設定は奇想天外、にもかかわらずクジラをながめる人々(?)の様子が、だんだんとおだやかに、たのしそうになります。その差が読者の頭の中での考えをふくらませてくれます。
静かにたたずんでいるクジラ、なにを物語っているのでしょう。答えはどこにもありません。やわらかな連想が生みだされるだけです。ただ、謎だけが残ります。最後のページの絵では、クジラの口から水がふきでています。ところが、文は「クジラはいまでもひろばにたっています。」で終わり。見事に文と絵は、はなれています。もしかすると噴水だったのか、クジラはなにも語りません。ただクジラの表情、ことに目の動きは何かを表しています。
それを読みとるたのしさが、連想するたのしさがこの絵本にはあります。