今、まさに情報化社会。
ITだネットワークだと、世界中を情報が飛びかって、情報、情報と何かと騒がしい。
しかし勘違いをしてはいけません。
子供にとって最大の情報源は昔も今も人です。
とりわけ大人。
テレビやコンピューターではない。子供はまわりの大人を見ながら育っていく。
このことは未来永劫変ることがない。
名古屋出身で清水義範さんという作家がいる。
いまは東京の杉並にお住まいです。
絵本館と同じ杉並。
その清水さんに先月インタビューする機会がありました。
そこで聞いた、いい話があります。
「学校の先生は月に一回子供をほめる。
お母さんは三日に一回子供をほめる。
それもその子の姿勢や態度あるいは努力をほめるのではなく、その子の才能をほめる」。
子供の才能をほめる。
言うは易く、行うは難しです。
自分の子供の才能をほめる。
そういわれて多くの親はどうしたらいいのか戸惑うのではないでしょうか。
そのためになにが必要なのかと。
子育て中なら、わたしも同じように戸惑ったでしょう。
人間を見る眼、そのための物差しがたくさんあれば、子供をほめるのはさほど難しいことではないと、いまなら思う。
つまり多様な価値観を親が持っていればいい。持ち合わせの物差しが学校の成績、偏差値の一つだけでは親が自分の子供をほめるのは至難の業でしょう。
多くの物差しを持つために親はなにが必要か。
よく見ることです。
人も物事も良く見る。いろんな角度からよく見る。
とりあえず、まずあなたがいま思った考え方の反対の方向から検討してみる。
たとえば偏差値が高い。
それが自分の子供にとって本当に幸せか。
偏差値が低くていい場合はないのか。
子供の幸せを中心に考える。
すると今まで見えていなかった子供の才能が見えてくるのではないか。
考えることの基本はよく見ることです。
だから子供をよく見るようになると、おかあさん自身も考える人になれる。
大人でも遅くはない。
物事をよく見る癖がつくと、親も子も賢い人、考える人になれる。
子育てで肝腎なことは子供を上手にほめること。
すると子供はほめられて元気が出るし、お母さんは物事をよく見ざるをえないから、つい賢くなる。
いいことづくめです。
テレビや早期教育のおかげで、なにごともすぐ分ったような気になってしまう子供。
今はそんな時代です。
すると子供は物事をよく見ようとせず、結論だけを気にするようになる。
つまり考えなくなる。
心は幼少にしていきなり老人です。
そんな領域に達した青少年はいまの世の中いくらもいるでしょう。
なぜそんな青少年がふえたのか。
その責任の一端は、絵本にも児童文学にもある。
たとえば偉人伝。偉人伝を読んで気持が高揚する子供はいるでしょう。
偉人伝は結論ありきの世界です。
いずれにしても偉大な人という結論は動かない。
ただ偉人といえども生活はいろいろあったでしょう。
それを単純にほめたたえる。成功のまえにすべては封印される。
映画『アマーデウス』を見るといい。
クラシックの世界では神聖にして冒すべからざる楽聖モーツァルト。
そのモーツァルトのチャランポランでいいかげんさをえがいてあますところがない。
ぼくはそんなモーツァルトを好ましくおもいながら見ました。
もちろんモーツァルトの音楽に対する親愛は増すことさえあれ変ることはありませんでしたが。
結論だけを信じきって、結論から考えを反対にさかのぼるようになると、道は狭くなり考える人にはなれません。
予定調和のように、安直な結論だけが待っている絵本はいくらもあります。
ことに真面目な顔をして子供に何かを伝えようとしている絵本とか、科学系の絵本にはその傾向がつよい。
そんな絵本を喜んで子供に与えるのは、いかがなものかとわたしは思っています。
好奇心を育てるために「結論は隠蔽せよ」。こんな標語いかがですか。
「絵本で大事なことは起承転結」というキャッチフレーズがあります。
ここでも結論です。
この言葉を信じてしまうと絵本の楽しさから遠ざかることになります。
起承転結を唱える人は絵本の内容のまえに結論です。
結論がはっきりしていない絵本のことは端(はな)から評価しません。まず結論ありきです。
そんなタイプの大人が「結論だけに固執し、物事を考えなくなった青少年」を笑うことはできません。
もとを正せば原因はいつも大人の側にあるのですから。
起承転結の字をよく見てください。
起は起こるです。たとえば、「京の都におおきな紅屋があった」が起です。承は承(うけたまわ)るです。
「その紅屋には、えも言われないほど美しく妖艶な娘がいた」が承です。
問題は転。
転は転ずる。変化するということ。
だから転では「人を殺すには刃物がいるが」ときます。
なにごとだ物騒な、と思わせておいて、結は「紅屋の娘は目で殺す」となる。
一見とり散らかったと思われたものをまとめあげるのが結です。
ストーリーに起伏としっかりした結論がある。
それを起承転結とはいわない。すぐれた絵本といわれている絵本のどの部分に転があるのか。
結論の有無など、どうでもいいのです。
問題はその絵本を読んで、あなたの心が動いたかどうかです。
大事なことというか、スタートはまず心が動く。そこからです。
絵でも音楽でも映画でも、もちろん絵本でも、あなたの心が動いたかどうかです。
平らかな気持で、見たり聴いたりして、その結果、どんなに評価の高い作品であってもあなたの心が動かなければ、気にすることはありません。
だからといって開き直ることもありませんが。
言葉に出さなくても「わたし、なんだかよくわからないの」。
そんな殊勝なことを言ったり、思っている人はいくらもいるでしょう。
そんな人たちに言いたい。
曲者はこの「よくわからない」です。
わからないと思うとすぐ腰が引けてしまう。
それがいけません。
卑屈になることはない。
わかる、わからないと考えるからボタンの掛け違いがおこるのです。
知識の量とか理解力は問題ではない。
ただあなたの心が動くか、動かないか、あるいは感じるか、感じないかだけです。
心が大きく動いたり感じたりしたときのことを感動といいますでしょう。
おおげさに聞こえるかもしれませんが、スタートはまず感動です。
「こんなに優れた絵本を理解できないとは」と呆れ顔で人を見下す無粋な輩。
まわりに結構いるでしょう。
そんな人間はただ単に愚にもつかない優越感のかたまりです。
この種の人間と接する時の心構えがあります。
「この下品な田舎者め」とつぶやいて無視することです。
(注にいわく、田舎者とは心が閉じている人のこと。住んでいる場所や住んでいた場所には関係しません)。
知識の量や理解力は自分の心が動いたあとに生じるものです。
ある作品を見てあるいは聴いて、心が動いたあと、知識や理解力を欲っする人もいれば、まったくそんな気にならない人もいます。
ただそれだけです。タイプの違いです。
まちがっても心が動くまえの知識や理解力などありえません。
研究などというものも、その作品に感じ入ればこそです。
順番はまず心が動く、それから知識、研究です。
それもごく一部の人にとっての話ですが。
ビギナーにとって、あらゆる趣味や芸術に「わかる、わからない」という考え方は不要です。
要は感じるか、感じないかです。
そこがスタートです。頼りです。
だから楽しい、面白いは今まで誤解されていました。
多くの人が考える以上に実は大事です。
だからみなさんも一冊の絵本を読んで、問題にすべきは面白いと思ったか、面白くなかったか、のいずれかです。
何かが身につく。
そのことを近代用語で言えば教養といいます。
映画が面白くて、楽しくて、夢中になって見ていたら、その結果、われわれの淀川長治さんになった。
教養は知識の総量などとは関係しません。
あるものに熱中し、集中し、心が活発になった結果、気がつくと知識もついていた。
そんなかたちで獲得した知識のみがその人の人生に有用な働きをするのです。
そこに自然と備わったものが教養でしょう。
だから学者にも、芸術家にも、職人にも、芸者にも、それぞれの仕事に教養の人はいます。
ましてどの学校を出たかなど問題ではありません。
(最後の芸者衆だけはほとんど馴染みがないので断定はできかねます。あしからず)。
インタビューでの清水義範さんの話に戻ります。
小学一年のとき父親が『次郎物語』を読んでくれたそうです。
それもたった一日。
その『次郎物語』が気になった清水少年は全五巻を最後まで読んだそうです。
そのあとお父さんは『路傍の石』も『二十四の瞳』も、それぞれ一晩ずつ読んでくれたそうです。
もちろん清水少年は続けて『路傍の石』も『二十四の瞳』も最後まで読んだとのこと。
このお父さん、小学一年生にふさわしい本はなにか、など何も考えていませんね。
ただ自分の好みだけで行動している。
じつはそれが正しいのです。
あなたの面白いとおもう気持を頼りに、子供の面白いを信じて、子供と絵本をたのしめばいい。結果はおのずからついて来る。
読書ぐらい目先のことなどあまり気にせず、まあ気楽にいきましょう。