世間一般が言うあたまのいいは偏差値の高さをいっている。
多くの日本人は「あの人は偏差値の高い大学に入ったからあたまがいい。
エリートだ」とおもっている。
マスコミも例外ではない。
オウムの報道を思い出してみるといい。
東大や慶応の医学部を出たエリートが「なぜだ」と報じたマスコミはいくらもあった。
このときの「エリートがなぜだ」は「あたまがいいのになぜだ」と同義語。
教科書や参考書に書いてあることを細大もらさず記憶できれば偏差値は高くなる。
だから偏差値は記憶の値、記憶値とも言える。
ところでこの記憶力、じつはいろいろある。
人の名前と顔をセットで憶える人。
この方面の代表は田中元首相でしょう。
この記憶力が高ければ選挙に出るのにはうってつけです。
小売商売にもむいている。
営業方面は間違いない。
トム・クルーズの「レインマン」ほどではないが、世のなかにはむやみに数字に強い人がいる。
他人の誕生日や電話番号をたくさん憶えている人、身近にいるでしょう。
指の記憶力。この記憶力が高い人はピアノやヴァイオリンにむいている。
ワインの微妙な味の違いをいい当てるソムリエ。
ソムリエは舌の記憶力が高い人。
反対に味にたいする記憶の乏しい人が名料理人になれるわけがない。
店再建のため名人・達人に弟子入りした。
にもかかわらず、すぐ客足が落ちてしまう店の主人。
この人は舌の記憶力が悪いのです。
料理人にはむかない。
転業した方がいい。
人生は見切りです。
いずれにしても五感すべてになんらかの記憶力がある。
そう考えると職業選択の幅はひろがる。
なにも学校だけで人生が決まるわけではない。
子供の得意な記憶力を見いだす。
それを親が気づくといい。
親は子供の好きなもの得意なものを肩ひじはらずのんびり見ているのがいい。
偏差値が高い人は文字に対する記憶力が高い人だ。
その文字に対する記憶力も二種類ある。
これを文字記憶力と呼ぶことにしよう。興味のある文章にはびっくりするほどの記憶力を発揮する人。
代表は淀川長治さん。
反対におもしろくもない、興味をもてない文章。
つまり教科書や参考書に高い記憶力を発揮する人。
それが偏差値の高い人です。
この種の文字記憶力をもつ人はおもしろくなくても集中できる。
その原動力は心配性か負けず嫌いです。
文字記憶力などと言うものは多様な記憶のなかのごく一部の能力です。
その文字記憶力の高い人を世間ではあたまがいい、低い人をあたまが悪いという。
あたまの良し悪しについて、あまりにも狭いところで話しをしているような気がする。
あたまが悪いではなく、「興味のない文字を記憶するのは苦手だ」がただしい。
興味のもてないことに熱中できた結果が高い偏差値。
そしてエリート。エリートといわれる人が人間味にかける印象を人にもたれるのはやむをえない。
天才を一人だけあげよ、と問われれば躊躇なくモーツァルト。
短い人生にもかかわらず素晴らしい曲のかずかず、聴くたびにただただ感心するばかりです。
モーツァルト以前に生まれなくて本当によかった、とおもっています。
モーツァルト没後二百年余。
モーツァルトの音楽を演奏会だけでなくCDやDVDで堪能できる。おおげさですが天の配剤に感謝です。
それにしてもなぜこのような名曲のかずかずをひとりの人間から生みだしたのか。
天才とはなにか。天才とはなにか。
そんなことを日ごろ考えていた。
すると、ある文章に出会いヒントを得た。
モーツァルは12歳のおりローマにおもむいた。
ローマの聖ペテロ大聖堂には写譜したり、外への持ち出しを禁じられていた「ミゼレーレ」という秘曲があった。
モーツァルトは秘曲「ミゼレーレ」を聖ペテロ大聖堂で聴く機会があった。
宿に帰ってモーツァルトは「ミゼレーレ」全曲を譜面に写してしまった。
以後「ミゼレーレ」は秘曲ではなくなった。
モーツァルト恐るべしというはなしです。
いま手持ちのCDでは11分12秒の曲です。
なんという記憶力でしょう。
音にたいする記憶力。
こんこんとわきおこるモーツァルト作曲のみなもとは音にたいする驚くべき記憶力の高さ。
私はこの文章を読んでそう確信した。
音楽だけでなくあらゆる音にたいする並外れた記憶力。
川のせせらぎ、小鳥のさえずり、草のそよぎ、虫の声、鐘の音。自然界のありとあらゆる音を無意識のうちに記憶するモーツァルト。自然界のここちよい音がモーツァルトのあたまには無数に記憶されていた。
それらの音はモーツァルトの身体に貯えられ醗酵し時期を得て、かぐわしくもたえなる音楽なって生まれでた。
自然界のありとあらゆる音をモーツァルトのスタイルの音楽におきかえる力。それが作曲だった。
モーツァルトにとって作曲はわけもないことだったのではないか。
だから鼻歌まじりで次々と名曲を紡ぎだした。
文章でも絵画でも音楽も、天才とは、自然や人間の社会に漂っているまだだれも捉えていないあるものを自分のスタイルで表現してしまった人のこと。
多くの人のまわりに漂っているあるもの。
それを表現した。
だから、その作品を読んだり見たり聴いたりした多くの人は、どこか心当たりがあるようなそんな気になる。
だから人々の心にながくとどまる。
絵本も例外ではありません。
自然界から多くのものをえたモーツァルト。
そう考えればピアノ協奏曲21番の第2楽章。あの陶然とした響きを映画「みじかくも美しく燃え」で自然描写に使ったのはうなずける。
ぜひ聴いてみてださい。ピアノはマリオ・ジョアオ・ピリスがおすすめです。