流れる雲のように

世界的にみれば物質的には豊かになったのに心のほうはすこしも豊かになったような気になれない。
社会が豊かになればなるほど便利になればなるほど比較級数的に幸せにちかづくと信じてきたのに。
反対に物質的な豊かさをえてなにかを失ったという実感はまちがいなくある。
何かを得ると何かを失う。
これは物事の道理ではないか。
子供たちにはこのことをきっぱりと伝えた方がいい。
社会が豊かになればなるほど便利になればなるほど人間得るものもあるが失うものもあると。
携帯電話の出現と普及をふりかえってみればすぐ合点がいきます。
われわれはなにを失ったのか。
近代の人間は組織と個人の関係にとまどっている。
ひとつは法人がもつ性格。組織なのに人と書く。
なんともややっこしい。
なぜややっこしいか。
簡単にいえば人には寿命があるが組織には寿命がない。
その法人に属しているのも、その法人を代表しているのも寿命のある人間。
しかし法人には人間のような寿命はない。モンスターのような存在。
このモンスターがあまりにも肥大し、サービス残業や過労死など人を組織に隷属させる結果をまねいた。
ただこのモンスターのおかげで資本主義は発展してきた。
二十一世紀はこのモンスターを上手に飼いならそうとしている国々とこのモンスターの無定見な意志に振りまわされている国々に別れていくのではないか。
このモンスターの調教師たらんとしているのがドイツやオランダ、デンマーク、スウェーデンなどの北西ヨーロッパの国々。


対してこのモンスターを溺愛し、結果主人だとおもっていた人間がご機嫌伺いをする羽目になった国がアメリカ。
日本の学者もビジネスマンも役人・政治家も留学するといえばアメリカ。
あきれるほどのアメリカ一辺倒。
昔の人は多くヨーロッパに留学した。
今日唯一の師匠はアメリカということになった。
「だれが一番師の教えに忠実か」などと競い合っているのが現状の日本。
「これがスタンダードだ、世界の常識だ」の「これ」はアメリカのスタンダードだったり常識だったりするわけです。
それも今のアメリカの常識なのに。
なんともバランスの悪いことになった。
リストラという首切りをしてなにも恥じないどころか反対にほめられるしまつ。
首切りはむかしでいえば村八分です。
いい大人がみんなでなかよく村八分をやっているのに羞恥心のかけらもないありさま。あきれたものです。
このような一方的なスタンダードや常識が大手を振ってまかりとおる。
やはり大事なのは教育でしょうね。
ものの見方、認識力の欠如はこの日本では深刻です。
「太郎君と次郎君はお友達でしょう。
けんかしちゃだめよ」幼稚園や保育園で先生がよくいう言葉です。
これを言い直すとこうなります。
「太郎君と次郎君はクラスメートでしょう。
できたら仲良くしてね。どうしてけんなんかしたの」が正確ないいかたです。
太郎と次郎はクラスメートです。
二人をクラスメートにしたのは大人である先生たちです。
クラスメートなのであって友達かどうかはわかりません。
友達であるか否かを決めるのは太郎と次郎であって先生ではないのです。
希望と現実がごっちゃになった言いかたが「太郎君と次郎君はお友達でしょう。
けんかなんかしちゃだめよ」です。
大人である先生に悪意はありません。
「だってわたしもそういわれて育ってきたんですもの」です。
この種の言葉になんの違和感もない。
言葉に対するセンスの欠落。
ただあるのは偽善の押つけ。
こんななかで育つ子供たち。
現実に対する認識力や判断力が鈍くなっていくのはやむをえないことではないでしょうか。
そう考えると真面目ぶった絵本やうすっぺらな親切をほめたたえている児童文学は偽善の温床というか人間の精神をどれほど不健康にしていることか、計り知れないものがあります。
いいかえると小さな親切おおきなお世話。なんとも不潔なはなしです。
こんなくだらない絵本を読んだり見たりするぐらいなら、そうげんにねころんで流れる雲を見ながら鼻くそでもほじくっている方がどれほどすこやかか知れたものではありません。

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