小言勘兵衛襲名披露

日本の大人は小言を言いたがる傾向にある。
外国のことに詳しいわけではないがそんな気がする。
大人としてのつまらないプライドか、目下のものに接するのに、小言、あるいは小言の変形である威丈高以外の方法を知らないかの如くだ。
学校でも会社でも、先生や上司はよく小言を言う。
クラブ活動での先輩もたかが一二歳年上、ときには一ヶ月の違いもないのに平気で小言を言う。あたり前のように。
本当にあたり前なのか。
なぜ日本の大人は小言を平気で言うようになったのか。
そういう人はただ小言を言うのが好きなのか。
ところが、他人に小言を言う。
そんなことなど考えも及ばないし、おもいもよらないという人もいる。
気が弱いのか、自分の美学が許さないのか、あるいは小言を言ったぐらいで人が変わる訳がないと、はなからあきらめているのか、まあそのあたりは人それぞれだ。
そう考えると人間には小言好きと小言嫌いがいるような気がする。
生まれついての小言好き。
いたらいやですね。
小言好きの赤ん坊。
そんな赤ん坊などいるわけがない。
となると小言好きは後天的ということになる。
なぜ人間は長ずるに及んで次第に小言好きになるのか。
人の上に立つ。
このときはじめて小言というものが出てくる。
クラスメイトや同僚に平気で小言を言う奴。
そういう人間に友達ができる日はないだろう。
ただ小言好きの上司をのさばらせているのは小言を言われることになれている善意の部下だったりもする。
幼少のころから小言を言われるのになれきっている生活。
そうなると何を言われても骨身にしみることがない。
つまり自己防衛のために聞き流す。
するとますます小言のレベルはアップすることになる。
また子供の言うことや行動を見守ることができず、すぐ指示や命令を出し、結果子供の自主性を摘んでしまう大人たち。
過去を振り返り、まわりを見渡すとかなりいますでしょう、そんな大人たち。
そんな大人に限って「子供の自主性は大切だ」などと平気で言う。
まるで標語のように。
そういった大人たちと日々生活しつづけている子供たち。
これでは世に小言好きがはびこるのはあたり前といえばあたり前なのかもしれない。
そのうえ悪いことに小言を言うことに、はばかりを感じていない人間が組織では上にいく。
こまった社会です。
これでは小言を言う人間が大手を振るうわけです。


小言は個人のみならず社会にとっても実は有害です。
それは言葉が持つ力にたいする信頼を失わせ、言葉にたいする人間の感覚を鈍磨させてしまうからです。
そのうえ人間そのものにたいする信頼も失わせてしまう。
そうなるとことは重大です。
上に立つ人にもとめられているのは小言を言う能力や威丈高になることなどではない。
上司はなにかにつけ判断しなければならないことがでてくる。
そこで適確に判断する。
そのうえ判断にぶれがない。
上司にはそんな能力がもとめられているのではないか。
小言好きな人は、叱責することで他人は変わるとおもっている。
小言が癖になっている人は、そんな人間観の上にたって生活をしているのではないだろうか。
わたしは、人間は変わらないものだとおもっている。
変わったように見えても、ほとんどの場合は考え方という座標の上をすこし動いただけで、考え方の座標軸が回転したのではない。
人間が変わるとは座標軸が回転すること。
座標軸の回転、それをコペルニクス的転回というのではないか。
そんな経験をした大人はめったにいない。
やわらかい思考力とふところの深さ、ある種の包容力をもっていなければ考え方の転回はやってこない。
養老孟司流にいえば、壁のない脳をもっていなければコペルニクス的転回を経験する日はこないということではないか。
おおくの人間は変わらない。
ただ自分のいる位置をすこし動かすだけだ。
それはオウムに限らず新興宗教の信者のことを考えてみればすぐ分る。
もっと身近なことで言えば、同窓会であったクラスメイト、外見はこんなにも変わってしまったのに、気質は四五十年経ってなにも変化していない。
そうとしかおもえない。あきれるほどだ。
人間生まれもったものの上に、幼少の時から徐々に形作られた気質を変えるのは並大抵のことではない。
ほとんど不可能に近い。
虐待を経験した子どもが親になる。
虐待という不快極まりない経験をした人、その人のことだから自分の子供には虐待などするわけがない。
普通はそう考える。
ところがあにはからんやである。
また虐待をしてしまう。
そんなケースが多いという。
人間の心のうちはどうなっているのだろう。
自己正当化と自己嫌悪とのせめぎあいなのか。
子供時代小言を言われつづけ、そのうえ会社に入ったらさらなる小言。
その子供や新入社員も時がたつと親や先生・上司になる。右の虐待の例にならえば、いずれ小言を言う親や先生・上司になってしまう。
これではいつまでたっても悪循環ではないか。
この悪循環を断ち切るためにはどうすればいいのか。
長い引用になりますが、これから紹介する文章は伊藤美好著『パンケーキの国で〜子どもたちと見たデンマーク〜』(平凡社)の一節です。
伊藤美好さんが1995年4月から2年3ヶ月、三人の子どもたちと一緒にデンマークで過ごしたときの記録です。
いままでお話した悪循環を断つヒントがこの本にはいくつもあります。

「人は間違いを通して学んでいきます」
「間違いを恐れないで」
日本でも、デンマークでも、何度この言葉を聞いたことだろう。
聞くたびに「それはわかっている」と思っていた。
しかし、ある日、担当のカミラ先生と翼(長男)の、一対一でのデンマーク語の特別授業を見学したときのこと。
ふと翼のノートを見た私はつづりの間違いに気づいた。
「あら」と思い、先生の顔を見ると、目で「黙っていて」と合図された。
授業の後で、先生は私にこっそりと言った。
「今、大切なのはどんどんしゃべり、どんどん書くこと。つづりの間違いをいちいち直したら、ツバサは自信をなくして、もう書こうとはしなくなるでしょ。だから今は間違いを正さないのよ」
はっとした。今まで、子どもの間違いに気がつくと、つい口を出していた。それが子どもの自信を奪っていたのだろうか。「間違うことはいけないこと」との思いを子どもに植えつけていたのだろうか。
(中略)
劣等感を持たせず、やる気を失わせず、生徒と一緒に楽しみながら、本人が自分で気づく時を待つ。こんなゆったりとした教え方ができるのも、テストをせず、成績をつけないからだろう。
小さいときからテストをされ、成績をつけられる日本の子どもは、「間違わないことが一番よいこと」との考えを心に深く刻みつけてしまう。
最高点の百点というのは、「間違いが一つもなこと」なのだから。それに加え、「同じ間違えを繰り返さないように」という指導もされる。
この中で育てば、未知のことに足を踏み出そうとしなくなるのはあたりまえだろう。
それなのに、「今の子どもは創造性がない、意欲に欠ける、冒険ができない」などと言われてしまうのでは、あんまりだ、と思う。
性急な評価をせずに、子どもの内にある力を信じて、あせらずにゆっくりと待つことが私たち、おとなにできるようになれば、日本の子どもたちも、もっとのびのびとそれぞれの力を伸ばしていくことができるだろう。

ずいぶん長い引用になってしまいました。伊藤美好さんごめんなさい。
いずれにしても小言はひらにご容赦願いたいものです。
今後は口うるさい小言幸兵衛さんに出くわした時は、小言は「かんべん、かんべん」という気持を表わすために、こちらは小言勘兵衛と名のってみるのはいかがでしょうか。
名のりだす勇気がないときは、小声で「かんべい、かんべい」と唱えてみるのもいい。
ただし小言幸兵衛という落語を知らないと洒落にならないので、もし知らなかったらぜひ聞いてみてください。
古今亭志ん生がおすすめです。
宮澤賢治の詩をもじれば、小言も言わず、愚痴も言わず、威丈高にもならず、わたしはそんな人間になりたい。
この言葉は、じつは子供に小言幸兵衛になった実績を持つわたしの反省をこめての今後の目標です。
では、おあとがよろしいようなので。いずれまた。

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