ソウイフヒトニ ワタシハナリタイ

テレビを観て感激することがある。
最近、感激したのはパラグライダーでプロペラを背負ってのカメラ撮影。
テレビでたまたま観て、とてもおもしろかった。超低空飛行で飛ぶ。その見事なこと。思わず見入ってしまった。ヘリコプターでは撮れない超低空。それも水面すれすれをぐっと迫って撮っていく。
半年ほどまえ、そのカメラマンが日本中の紅葉を北から南まで訪ねる映像に心うばわれたことがある。そのときもただただ呆然と見入ってしまった。特に飛騨高山。合掌造りの家の間をパラグライダーがすり抜けていく。いやはや鳥の目になったような気分、驚いた。

そこでふと考えた。昔はそういう役割を絵が果たしていたのではないか。
たとえば、まだだれも象を知らない頃、象をえがいた絵がある。江戸時代に二頭の象が長崎から江戸に陸路やってきた。でも今その絵を見ると「これが象か?」と思うような絵なんだ。象を見ないで聞きづてでえがいたのか、それとも見てえがいたか、よくわからない。それほど象らしくない。ただまちがいなく大きい。
その絵を見た人々は「海のむこうにはすごい生き物、動物がいるもんだ!」と噂したんだろうね。
初期の絵本も、象の絵と同じような、考えたこともない、見たこともないものを伝えるという役割があったのではないか。知識の伝達とか、宗教上の奇跡や聖人列伝とか。まだ知らぬこと、見ることができぬものがえがかれてきた。それが初期の絵本の役割だった。最近まで、いやいまでも絵本の特徴は、文の説明のために絵があり、文が絵本の中心になっている。

ところが、ここに長新太さん、五味太郎さん、佐々木マキさん、それを引き継ぐ作家たちがそれまでの絵本とはまったく異なる絵本をつくりだしている。知識や情報の伝達だけではなく子どもの想像力を触発、刺激する絵本が登場した。
子どもに対して方向の異なるふたつの見方がある。ひとつは、子どもは何もわからないのだから、なにごとも教えてあげねばならないというもの。もうひとつは、子どもは教えなくても日常の生活からいろいろなことがらを徐々に吸収していく。それも体系的にではなくアトランダムに。だから子どもにはあそびが大切なのだとおもう。アトランダムな吸収にとって大事なことは好奇心。どうしたら好奇心が動きだすか。動きだすための触媒、きっかけになりえる絵本とはどういうものなのか。
想像力は自分の頭のなかでえがくもの。ところが絵本の絵は他人がえがいている。自分のイメージではない。他人のイメージのお世話になっている。いつまでも他人がかいた絵のなかにいては、あるいはいつまでも他人の頭のなかにいては想像力はうごきださない。

絵本もある意味では材料でしかない。肉や野菜が料理の材料であるように、絵本も子どもの成長や生活にとっての材料。そういった絵本にとって重要な要素が省略と飛躍です。
文と絵に自然と配置された省略と飛躍。省略された部分は自分で補い、飛躍した部分は自分で捉える。そこに新しい絵本のたのしみ、醍醐味がある。

レストラン、のみ屋にたとえれば、おまかせ料理やコース料理は客の意向に関係なくでてくるのでカリキュラムのようなもの。その時その時、気のむいたものを注文するのがアトランダム料理。すききらいを別にすれば、どちらが頭を使うか。はっきりしている。
その時その時の自分の気持ちは、その瞬間になってみなければとわからない。寿司屋のカウンターにすわってみなければ何をにぎってほしいかわからない。車の中で聴く音楽でも乗ってみてはじめて「今日はこの曲だな」と決まる。大袈裟にいえば一瞬の快楽といっていい。

絵本でもおもしろさは読んでいる人、その人にとってのおもしろさだ。
日によって読みたい読んでほし絵本も変わるもの。万人がよろこぶ不変のおもしろさというものはない。だから教育から、カリキュラムからおもしろさは排除される。
読んでいる人が自分でおもしろさを発見する。そんな気持ちになれる絵本がすばらしい。評論家や識者がなんといおうと、その人にとってたのしい絵本がなによりだ。
そのうえ、作者が言わんとしている核のようなものがあるのに、まったく押しつけがましさがない。そんな絵本がいい。押しつけがましさがないとは、メッセージやテーマが前面に出ていないということ。前面に出るとどうしても押しつけがましくなる。おためごかしな親切、押しつけがましさ、あるいは別名大きなおせわほど好奇心の働きをなえさせるのに効果的なものはない。テーマやメッセージで読者を拘束しない優しさ。そこに作家の資質が問われている。

先日、これと同じような優しさを感じる出来事があった。スタッフの一人が読売新聞「顔」欄に大きく紹介された。その日、事前に知らされていなかったスタッフの息子さんが朝刊を開いた。すると、2面にカラーで母親を紹介する記事を見つけた。
ビックリした息子さんが奥さんに言ったひとこと。「あ、このひと、知ってる」。
普通なら「どうしたんだ、こんなところにおふくろが出ているよ!」と、奥さんに向かって大声をあげるんじゃないかな。ところが「あ、このひと、知ってる」と言った。一瞬の間、そのあとの一言。すごいサービス精神だとおもう。
なぜか?それは奥さんが新聞を手にしたその時の驚き、こころの高鳴りを保留したにひとしい。つまり優しい。
それと同じこころが作家にあるかないか。このサービス精神を絵本作家がもっているかいないか。全部を見せずにすこしみせる。全部を提示せず一部を示し、そのうしろにある大きなものは読者にまかせる。そういったサービス精神と芸をもっているかどうかが作家にとって大切な資質なんだね。
絵本をかいているときは瞬間瞬間の芸が要求されているとも言える。「あ、このひと、知ってる」は瞬間の芸だね。これをユーモアといわずになんと言うだろうか。だからユーモアとは一瞬の芸、というか一瞬の心のうごきから生まれるものなんだね。
そういうこころに余裕がある人と一緒にいると楽しいんじゃないかな。そんなイキなひとが増えるといいなとも思う。そういうひとに私もなりたい。いまさらむりかな。

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