オープンマインド

数学者の秋山仁さん。
この秋山さんに、その人となりをうかがわせるおもしろいはなしがあります。
秋山さん、何十年ぶりに高校のクラス会にでた。出たのはいいがまわりの友達にかつての面影がどこにもない。時間とともに人間、こんなに変わるのかと感慨ひとしお。話もはずまず。途中でトイレにたった。すると用を足していた隣の男性が「なんだ、秋山きていたのか」と大声でさけんだ。
分かりますか。このはなし。
会場もフロアーも間違ってはいなかった。ただ秋山さん最後の詰めがあまかったというかぼーとしていた。ほかの学校のクラス会に出ていた。気づかずにお酒など飲んでいたのでしょうか。しかし間違われた学校の人たちはびっくりしていたでしょう。なぜあの有名な秋山仁がわれわれのクラス会に出ているのか、と。秋山さんがトイレに立ったとき、みな顔を見合わせ狐につままれたような顔をしていたのではないでしょうか。いかにも奇人変人の多い数学者らしいおもしろいというか笑ってしまう話です。
こんなはなしが気に入っているせいか、秋山さんの数学の講座をラジオできくことがあります。車の運転中なので紙も鉛筆もありません。ただききながらおもいえがく。それがおもしろい。すきです。なぜすきなのか、最近秋山さんのインタビュー記事を読んで納得しました。長くなりますがその部分を引用します。

私は、好奇心や興味、関心を抱かせることに成功すれば、放っておいても子どもは自発的に勉強するようになると確信しています。
そういう学び方をしないと、難しい問題にぶつかったとき挑戦しない。そのためには、教え方にも工夫が必要です。(中略)
数学が嫌いな子に『できないならもっとやれ』と責めるのは、イソップ物語の『風と太陽』と同じ。どんなに大変でも、子どもたちの興味、関心を喚起するところから始めなければならない。古代ギリシャ時代から、学問は『どうして?』『不思議!』という好奇心に端を発しているのです。

 秋山さんの数学のラジオ講座がなぜおもしろいのか、この文章で分かりました。秋山さんの教育ははじめにエンターテイメントありき、ということです。
またこの文章には、子どもの自主性というものがどのように育つのか、反対に多くの大人が良かれとおもってやったり言ったりしていることが、心ならずも子どもの自主性をつぶす結果になっている、その一端が述べられています。

子どもが自発的に勉強するようになる。そういう学び方をしないと、難しい問題にぶつかったとき挑戦しない。

何事も自分自身で自発的に取り組まなければ、見えるものも見えてこないし、血となり肉となることもない。これは算数・数学の話だけではありません。読書にも通じるし、人間の生き方にも関係する。
子どもに教えてほしいと頼まれてもいないのに強制的に教える大人たち。すると子どもの自主性はどうなるでしょう。子どもはやる気がなくなる。大人でも子どもでもそのへんの気持はおなじです。
好奇心もおなじです。好奇心に大人も子どももありません。
秋山さんの講義は、聞く人の興味、関心を喚起するところがベースになっている。
おもいもよらないことかもしれませんが、エンターテイナーと教育者は本来おなじ土俵の上にいると考えていい。おなじ精神です。つまり教育者は明石家さんまさんとおなじ心もちでいなければならない。おじさんの私が秋山さんのラジオ講座を聞いておもしろかったわけです。

私は、好奇心や興味、関心を抱かせることに成功すれば、放っておいても子どもは自発的に勉強するようになると確信しています。

放っておかれた子どももやがて大人になる。そんな子どもは大人になっても自発的に物事に対処する力をもっている。秋山さんも放っておかれた子どもだったのではないか。その自発的な態度から「工夫」が生まれる。
秋山さんの「子どもたちの興味・関心を喚起する」ための「工夫」を別の言い方にすると、それはエンターテイメントという。
子どもたちがおもしろく・たのしくなるように教える。そのためには、まず教える秋山さん自身がおもしろくなければ始まりません。工夫している自分自身がおもしろくなくては、見る人教わる人になにも伝わらない。
ああでもない、こうでもないと工夫を凝らす秋山さん。その精神の働きは絵本をつくっている作者と同じような気がします。秋山さんのような教育者と絵本作家とは同じような精神の動きをしているのだとおもいます。ただ教育者と絵本作家では目指す方向に違いがある。

教育者はエンターテイメントという工夫をほどこしながらも、子どもたちにはっきりした目標や到達点を見せる。
しかし絵本作家は新しいものの見方や普遍的な考え方をエンターテイメント(おもしろい)というオブラートでつつみこんでしまう。絵本を読んだ読者は、ただおもしろいとおもうだけで新しいものの見方や普遍的な考え方といった核になるものは見えない。見えないと言うか気づかない。有力な作者ほどその種明かしはしてくれません。
見えないがゆえに読者の好奇心(興味や関心)は喚起される。隠されているために「どうして?」「不思議!」という心が子どもの無意識のなかで育っていく。
秘すれば花、というではありませんか。
ところが絵本によっては、すぐ見せてしまう作家もいる。やさしさやおもいやり、あるいは知識をダイレクトに見せたがる絵本。やさしさやおもいやりをこれ見よがしに表現してしまう絵本、そんな絵本ばかり読んでいるとやさしさやおもいやりに関して鈍感な人間になるだけです。表面的に直線的にやさしさやおもいやりを受け入れてしまうと、うそっぽくわざとらしい人間になりそうな気がします。
知識も同じです。子供自身が知りたいとおもってもいないのに、つぎからつぎにあらたな知識を与える大人。そんなことをしていると知ったかぶりのこまっちゃくれたガキになるのがおちです。
そういった絵本から好奇心(興味や関心)が喚起されるわけがありません。
そんな偉そうなことを言って、新しいものの見方や普遍的な考えといった核になるものをエンターテイメントというオブラートでつつんだ絵本があるのか、といわれそうですね。
もちろんあります。
絵本館で、そういったおもむきの絵本がつづけて三冊出ました。

だじゃれレストラン

まず機転力と頓知力をしゃれたユーモアでつつんだ中川ひろたか・高畠純『だじゃれレストラン』。
だじゃれなどと馬鹿にする人がいますが、見くびってはいけません。知識の多寡だけでは新しいアイデアは生まれません。企画力の源泉は機転力と頓知力です。日常の生活でも、とっさのときひらめく人とひらめかない人。この能力ほど人間にとって大事なものはありません。

だれでも知っているあの有名なももたろう

つぎは五味太郎『だれでも知っているあの有名なももたろう』と長谷川義史『いいから いいから2』。

いいから いいから2

この二つの作品には共通した考えがあります。もちろん、笑いとユーモアというオブラートはこの二人の作家のお家芸。これはあたりまえ。
問題は核です。異なる世界の者。鬼でもおばけでも雷の親子でも、先入観や偏見を排し、へだてなく受け入れる心。この二つの絵本に共通する精神はオープンマインドです。こんな心もちで世界の子どもたちが育ってくれれば、世界から紛争がなくなり、平和が約束されるでしょうに。
以前五味さんが「子どものため」という言葉について「男と女とか、外国人と日本人とか、大人と子どもとか、そんなことを気にもせず育ってきた。だから子どものための絵本といわれても、わざとらしくてぴんとこないな」と話していました。
なにしろ、「行ってみなければわかりません。会ってみなければ分かりません。行ってみればわかります。会ってみればわかります」というへだてない心です。先入観と無縁な心もちと偏見にとらわれないたおやかな心。ひろびろとしたいい気分になれる絵本です。
「まあ、いいからいいから」という余裕、心のゆとり。そこからそこはかとなく生まれるユーモア。こんなおじいさんがいる孫はしあわせです。もちろん読者のわれわれもしあわせです。長谷川さんならではのゆったりとしたここちよい人間模様、いや人間とおばけ模様。なんともいえない豊かで平和な世界です。
こういった見えない核(オープンマインド)をエンターテイメントでつつんだ絵本。つくづく絵本はすてたもんじゃありません。
あらためて絵本ファンになりました。

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