「絵本はわざとちょっと足りなくするほうが、読者の想像力が増すとおもう」と絵本作家高畠純さんは言う。実に金言です。
絵本の絵は文を説明するために付いている、と考えている人は多い。絵本の絵を挿絵と考えると、どうしても絵が説明的な役割をになうことになってしまう。なぜ絵が説明的になると問題なのか。それは、読み手の想像する力と関係するからです。
ところで「絵本はわざとちょっと足りなくするほうが読者の想像力が増す」とはなんのことなのか。具体的にいわないとわかりませんよね。
たとえば回文絵本。前から読んでも後から読んでも同じ文を回文といいます。「あなだなあ」「なすおすな」「かしたべたしか」など90ほどの回文を高畠さんが見せてくれた。
高畠さんは「おもしろい絵本ができる」と喜色満面。しかし、わたしは「えー、これ絵本になるのかな?」と浮かぬ顔。
絵はなく回文だけを読んだときの高畠さんの頭のなかと、わたし有川の頭のなかを想像するに、高畠さんは回文を読むと同時に絵が浮かんでいる。わたしには絵はまったくなく回文、文章だけ。これが喜色満面と浮かぬ顔のちがい。
これらの回文は絵がついてはじめて絵本としての力をえる。ところが、絵も回文がなければ「この絵はなんなの」状態。
「ちょっと足りない」回文と「これなんなの」の絵を合わせて味わい深い絵本にしているのは、読み手の頭の働き。この頭の働きが想像する力を生みだす基になっているのだと思います。
子どもが受け身にならず、自らの意志で考える。それも知らず知らずのうちに自然と頭が動きだす。この頭の働きがあってはじめて想像する力はそだつでしょう。説明的な絵や文からでは生まれない現象です。
みさなんも「あなだなあ」「なすおすな」を読んで、どんな絵が付くと喜色満面になると思いますか。
考えてみてください。
高畠さんの頭にうかんだ絵はこれです。
今度は反対に「これなんなの」の絵を見て回文を考えてみましょう。
この絵だけを見ていると絵としては、なにかものたりない。そうおもいませんか。そこに「ぎゃくいくやぎ」「かるいのりのいるか」という回文がつくと、「なるほどな」となりますでしょう。
「ちょっと足りない」回文と「これなんなの」の絵を合わせることによって味わい深いものが生まれる。そこに絵本の醍醐味がかくされているのです。
有力な絵本作家は読み手に結論をだすのではなく、ヒントを提示するものです。文も絵もなにもかもすべて説明してしまっては読み手の頭が動きだすことはありません。
ヒントですから「ちょっと足りない」ぐらいがちょうどいい。この「ちょっと足りない」に必要不可欠なものがあります。省略と飛躍です。絵本の文と絵に省略と飛躍があればこそ子どもに想像する力が生まれてくるのです。
というのは作者が省略や飛躍でとばした部分を子どもたちは補いうめていく。そのうめているという感覚、自分も参加しているという感覚。自分の頭が動きだしているという無意識の自覚、そこに「おもしろい」という気持ちも生まれてくるのだと思います。ですから、子どもが「おもしろい」と思う気持ちがなににもまして大事ということになりますね。
「よい絵本」などというものを信じてはいけません。よい絵本はその子その子によって異なります。自分の子どもや孫がたのしい、おもしろいと思った絵本が、その子にとっての「よい絵本」です。