アメリカの飛行機テロの報道をみていろいろ考えさせられました。
絶対という考えは人間にとってほんとうに有害だということ。
オウム真理教も戦前の日本の精神(万世一系の天皇)も、イスラム原理主義と同じ「絶対」という考え方の産物です。
正義感のもつ怖さはすぐに唯一絶対という鎧をみにつけて、他人の言うことに耳を貸さない狭量さにあります。
当人の狭量だけなら被害は回りのすこしの人間だけで済みますし、狭量な人が嫌なら逃げだす手もあります。
唯一絶対の怖さは狭量などとは桁(けた)がちがいます。
その考えに従わない人間へ攻撃をしかける。最後はそういった発想につながってしまうところです。
日本の子どももつい「絶対」という言葉を使いがちです。
普段なにげなく絶対という言葉を使いなれると、ものを考えない人になってしまいます。
考えがコンクリート化し、固まってしまうのです。
このことをむかしから「石頭」といいます。
それでわたしは子どもが幼い時ふだんの生活で「絶対」という言葉を禁句にしました。
アラブの子どもやアメリカの子どもはどうでしょうか。
イスラム原理主義というのはいいかえるとイスラム絶対主義ということです。
この原理主義あるいは絶対主義は仏教や儒教、道教などアジアの宗教や考え方からはあまり生まれてきたことがないのではないでしょうか。
宗教は一人ひとりの心のことなら、なんの問題もありません。
しかし問題は教団です。
人間あい集い、拠ってたかるとろくな事をしないというのが歴史の教訓です。
気をつけねばなりません。
それにつけても教育は大事です。
正しい心を持てとか、何よりも正義感がだいじだとか、こんなことを真面目な顔をして思い込むような子どもが育ったら、社会は滅びる可能性が高まります。
軽薄なことやたわいもないこと、あるいはふざけたことにうつつを抜かすような子どもが育てば、戦争やテロには向かないかもしれませんが社会は滅びることはないでしょう。
人間一致団結するとろくなことがない。これは信じていい。
それにしてもビルがあの状態になったら崩れ落ちることを専門家はだれも予知できなかったのでしょうか。
専門家は本当にいるのかいないのか。
いつも大きな事件が起こるたびにおもいます。
社会にはその道の専門家がいるから安心だ、とおもっているわれわれが甘いのです。
これからの時代は知識より勘を研ぎすます。これが大事ではないでしょうか。
イスラム原理主義のターゲットになっているビルに、以前も被害にあっているのにおおくの金融機関はなぜ居続けたのか不思議です。
専門家もいなければ先見性を持った指導者もいない。
咄嗟のときに機転が利く、これが一番大事なことなのに現実はこれを無視して暗記一本槍の偏差値教育です。
そのなれの果てと思えばいまの日本の現状にも納得がいきます。
こんな現状を納得させられている日常。絶望はすぐ隣にあります。
しかしこの絶望からスタートをきるつもりでいれば絶望もあながち悪くもないかもしれません。
少し強がりかな。