きたえられた子供

詐欺指数という言葉があります。
しかし世の中では流通していません。わたしが最近おもいついた言葉ですからあたりまえです。
世の中には詐欺指数の高い職業と低い職業があります。
詐欺指数の一番低いのは農林水産業と手工業、なんといっても物作りです。
反対に詐欺指数の高い職業があります。
政治、行政、金融、教育、宗教、医療。痩身となるとかなり詐欺指数は高い。サラ金は論外です。もちろんこれらの仕事に従事している人すべての詐欺指数が高いわけではありません。どの職業にもいくらか詐欺の要素はあります。ようは確率の問題です。
われわれ出版やマスコミはどうか。これがかなり高い。痩身レべルより高いかもしれません。新聞、テレビ、雑誌、書籍などの詐欺指数が高いとなると、人々は毎日詐欺的状況のなかで生活しているようなものです。
小はおれおれ詐欺、リホーム詐欺、新興宗教の勧誘、どこで手に入れたのか子供への受験産業からの勧誘。
大はヒットラーやスターリンなど独裁、全体主義。
はじめは民衆の圧倒的な支持、そして独裁。だまされたのではありません。民が熱狂的に支持したのです。ところが後から考えると民は決まって自分がだまされたといいだします。
圧倒的な支持をうけた指導者。歴史を振り返ってみると、そういった指導者は民主主義にとって最も危険な状態だと考えて間違えないのかもしれません。
今も昔も人々は大小さまざまな詐欺に取り囲まれて生活しています。
ラジオの普及がヒットラーを生んだそうです。そう考えるとテレビや電話、コンピュターの発達、普及がこれからどんな詐欺や独裁を生むのか。よほど気をつけねばなりません。何事も情緒におぼれすぎることなく、実証的な精神を身につけ、自らをきたえるしかありません。
 
それにしてもどうしてこんなに詐欺にひっかかる人が多いのか。詐欺師の頭が良いのか、ひっかかる人間がバカなのか。バカとは失礼ですね。ではなにか。トレーニング不足です。
相手はだましにかかっているのですから、まず第一は疑うことです。ではなにを疑うか。間違いなく言葉です。通常詐欺の手段は言葉と文字。これがなくて詐欺師は成り立ちません。
ところがわれわれは学校教育で疑うトレーニングをまったくうけずにきました。なぜか。
学校で文章の読解というものをわれわれはやってきました。国語の授業というと明治以降一貫して文章の読解。読解教育の基本は作者あるいは主人公の考えや気持を推しはかる、理解することにあります。
「みんなでこのクマさんの気持を考えてみよう」。
「この作者の意図するものは何か」。
国語の授業はそういう形で行われてきました。教科書の文章は名文。だから作者の気持を忖度(そんたく)する姿勢が生徒には求められてきたのです。
 子供たちは虚心坦懐、率直な気持で教科書の文章に接するように指導されてきました。疑ってはいけないのです。
詐欺師にとってこんな都合のいい環境はありません。
こんな授業をうけた生徒たちが大人になる。そして詐欺指数の高い文章を読んだり話しを聞いたりする。なにしろ日本人は素直で率直な心で文章や話にのぞむ癖がある。だから結果はいちころ。詐欺師のおもうつぼです。
 
こういった授業の根底にある考えは「未熟な者を導く」です。
「いまだ、いたらない人々(子供たち)よ、この教科書にある文章はどれもこれも優れたものである。この選りすぐった文章の表面にあらわれていない作者の真意をわたし(教師)が教えてあげよう。だからよく聞いていなさい」。
そう言われながらわれわれは育ってきました。教育はある種宗教的でもあります。
ところがよく考えてみてください。なぜ先生は作者や主人公の気持が分っているのでしょう。この疑問に先生は答えることができません。断定できないことを断定してきたのです。
科学的態度から最も遠いところに国語の授業はある。みなさん、子供のころからなんとなく国語の教育に対し胡散臭い印象をもっていませんでしたか。原因はここです。国語教育自体が初めからある種の偽りの上に立っていたわけです。
作者の真意を推しはかる。疑わず先生に従う。人々のこういった従順な態度は、国や組織の指導的立場にいる者にとって期待通り、いやそれ以上のものになりました。
疑うことを知らない民。その結果すなおで従順な勤労者、機械のような兵隊が大量に生みだされたのです。明治、文部省創設の眼目はここにあったのですから、その成果たるや赫々(かくかく)たるものがありました。この状態が社会に浸透していくにしたがって、指導者は民を見くびり、たかをくくるようになった。その結果が前の戦争です。
江戸時代にはなかった読解教育や一斉教育の害。それは結果として多様性を拒むことでした。しかもこの精神は今なお健在です。教育の世界はいまだ明治から卒業できずにいる。あきれるほかありません。この国では子供の多様性は風前の灯になってきました。


読解教育の弊害が問題なら、それに変わるべき方法はあるでしょうか。
方法はあります。
詐欺指数の高い文章を授業で読む。詐欺の手口がどこにかくされているか。みんなで読む。その種の文章には脅かしの部分がどこかに必ずかくされています。どこにかくされているか。みんなで検討すればすぐ見つかります。すると自然に詐欺を見抜く力がつちかわれます。
「さあみなさんこの文章を読んでなにかおかしいな、と思うところがありますか。あったら手を上げてください」。
詐欺的部分をみんなで指摘しあえば腕はめきめき上がるでしょう。
テキストはどこにあるのかって?
心配はいりません。詐欺指数の高いわが絵本業界のこと、書店に行けば無料で配られているパンフレットやガイドに恰好の文章がいくらもあります。もちろんこのわたしの文章をテキストにしてもいい。
詐欺的な部分(ちょっとした脅かし)はどこにあるか、そんな心構えで文章を読んでみる。するといままでとはかなり違った読み方ができるようになります。
たとえば「子供にはよい絵本を与えよう」と言う人がいます。
「子供によい絵本を与えねば、子供の将来に暗雲がたちこめる」とでも言っているようにきこえます。
ほんとうでしょうか。
そもそもこの言い方には初めから矛盾があります。言っている当人が子供のとき、よい絵本なるものを読んでもらったことがあるのか、ないのか。
ないとすると、「われを見よ、よい絵本を子供のときに読んでもらわないと、この程度の人間にしかならないぞ。だからくれぐれもよい絵本を子供には読んであげなさい」とでも言いたいのでしょうか。そんな謙虚な言い方をしているようには聞こえません。
詐欺師の典型的な言い方があります。まず優しく言う。相手の身になっているように言う。そして「キャッチフレーズを繰り返す。筋道だった説明はしない。感情や感覚に訴える」(ヒットラー『わが闘争』)。これが民を動かす極意だそうです。こういう言い方をする人は、要注意。政治家や新興宗教の教祖のみならず、絵本や児童文学の世界にもいくらもいます。
よい絵本と言われるものが世に出て五十年近くになります。その出始めのころ「おたくのお子さんによい絵本を読んであげると後々いいことがありますよ」という口上は成り立った。なにしろ「よい絵本教育」が試される前だったのですから。そのときあった現実は「そうなるといいな」という希望でした。
その希望はどうなったでしょう。
現実の声は反対です。
「近ごろの子供は本も読まなくなった。そのうえ人の気持などお構いなしで傍若無人、困った子どもたちが増えたものだ」。
これがおおくの大人たちの声ではないでしょうか。いつの時代も多くの大人がいいそうなことです
よい絵本と評判の絵本をわが子に与えて「この子ったら、こんなよい絵本を読んであげたのに何も反応しないわ」。こんなことを言うようになるとことは深刻です。熱心な「よい絵本教育」の成果でしょうか。
教育の観点から絵本を見ると、子供と一緒にすごす絵本の時間がイライラしたものになります。教育ではどうしても標準、スタンダードという考えが出てきます。わが子をその他一般、その他大勢と比較することになります。比較すればイライラは当然です。
では絵本に関してそんなイライラした母親にならないためにはどうすればいいでしょう。
答えは簡単。あなたが徹頭徹尾おもしろいとおもった絵本を子供と楽しめばいい。それだけです。徹頭徹尾というのは「この絵本の対象年齢は?」とか「この絵本、うちの子にむつかしいのでは?」とか、そのようなことを気にしないという態度です。比較とは無縁な態度です。
大人のあなたが読んで純粋に心からおもしろかった絵本。ほんとうに純粋にですよ、おもしろいとおもった絵本です。あなたが本当におもしろいとおもった絵本は大人も子供も共に楽しめます。対象年齢は関係ありません。
長新太さんや五味太郎さんなど著名な作家の絵本は、大人がみてもおもしろく、子供がみても楽しい。大人と子供が共にうなずき、共にたのしめる。ここが並みの絵本作家との違いです。
だからあなたも安心して徹頭徹尾おもしろがってください。大丈夫。子供もたのしめる確率は高いのです。「大人はこころおきなくおもしろがるがいい」。これは絵本を見るうえでの鉄則です。
絵本に教育を持ち込むとこの境地には至りません。イライラの確率は高まるばかりです。
反対に教育のことなど気にせず子供とともに絵本を楽しむ。するとあなたの人柄や価値観、つまりあなたの人間としてのもろもろがいつのまにか子供に伝わることになります。
子供は知らず知らずのうちに親やまわりの大人たちの影響を受けながら育っていくものです。人間の生活は計算通りにはいきません。
詐欺に戻ります。「あたしの育て方に問題があるのかしら」とか「うちの子ちゃんと育っているかしら」そんなふうにあなたが思ってしまう文章や言葉に出会ったら、即脅かしつまり詐欺だとおもって間違いありません。少なくとも半信半疑ぐらいの気持ちにはなってください。
親が脅かされた状態で子供に接するのは最悪の環境です。
なにより絵本はあせらずゆっくり、気がついたら役立っていた。そのくらいゆっくりした気持ちがちょうどいいのではないでしょうか。
 
学校だけでなく家庭でもできる簡単な方法もあります。むかしは日本中どこでもやっていました。
たとえばある家庭のひとこま。
家族でマカロニを食べています。すると父親が「イタリア人はえらいな。このマカロニをぬいてスパゲッテーをつくったんだから」。この話しをその家の子供太郎君が友達に話す。すると後日そのマカロニ話しが事実に反することを友達から指摘される。家に帰ってその旨を太郎君が父親に話す。すると父曰く。「えー、あの話本気にしていたのか」。
なにが本当で、なにが嘘か、よくわからない家庭。
ニュアンスがちがいますね。もっと正確に言えば。
なにが本当で、なにが冗談か、わからない家庭。
正しくはこれです。お父さんは冗談を言っているわけです。こんな家庭に育てば子供の太郎君が考える人になるのは当たり前です。
この太郎少年長じたのち絵本作家になりました。
マカロニ父さんは五味太郎さんのお父さんです。
ところで五味さんのお父さんの語り口とあい通じあうものがあります。それは昔話。昔話の大人たちです。
子供をからかってよろこんでいる大人たちの姿。昔話を生み出し、話し続けてきた大人たちは子供たちをおどかしたり、おちょくったり、また子供にたいしてとぼけてみたり。手を変え品を変え子供たちをからかってよろこんでいたのです。
昔話の基本は冗談です。
冗談やほら話、とんち話で子供の頭は活発になってきました。まじめな訓話で賢くなった子供はいません。融通のきかない大人になった子供はいくらもいます。
知識をいくら詰め込んでも賢い人にはなれません。なにしろいまや知識の量ではコンピューターに人間はかなわないわけです。賢い人とは知識の多寡ではなく、ようは機転が利くかどうかです。
冗談できたえられた子供はそう簡単に詐欺ごときにひっかかるわけがありません。
詐欺師にとっての敵は実際を検証する精神と冗談を愛でる心。じつに冗談やユーモアは多くの日本人が考える以上に役立っているのです。繰り返しになりますが、絵本は気がついたら役立っていた。これがいい。いかがでしょう。

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