おとなは風

映画が好きです。
なにかというと映画に関した本を読むのも好きです。
ちかごろ読んでおもしろかった本は、『羅生門』『生きる』『七人の侍』の脚本家橋本忍さんの『複眼の映像 私と黒澤明』。
題にあるように、監督黒澤明との交友を脚本家の目を通して語ったものです。
読んでいくうち、印象に残る文章に出会いました。
印象に残るという言い方は冷静すぎて当りません。
読んだその時、はたとひざを打ったと言ったほうがいいでしょう。その文を引用します。

黒澤さんは映画についての法則や理論を好まず、一切口にしない。
その彼が珍しく『映画評論』に寄稿した一文がある。
映画は他の芸術の何に似ているかで、彼は一番よく似ているものは音楽だという。
音楽は感覚を聴衆に伝えるだけで、何かを説明することができない。
映画も同じで、説明しなきゃいけないことを説明しても、観客には分からず、説明は一切不可能であり、その本質的な部分で、両者はひどく似通った共通なものがあるという。

なぜひざを打ったか。
それは以前読んだ五味太郎さんの俳句についての文章が頭に残っていたからです。

俳句って説明しない、言い訳しない、ただ言い切っている、丁寧でありながら実にシンプル。くよくよなんていうものとは無縁。うん、そういうのいいな、惚れちゃうぜ、という感じ。
ごく限られたものの言い方で、かえって物事のバックグランドを広大に見せてくれる特質。切りつめた表現からうんと多様な解釈が成り立つようなしくみ。だから俳句は個人の感じ方を一切否定しないし、作者は作品についてこまごま説明する意志もない。勝手にわかってふくらませればいいよ、という感じだね。

この二つの文章はすぐれた芸術作品に共通する、重要なことが語られています。
それは説明しなかったために見えてくる広大なもの。絵本の醍醐味も芸術一般の醍醐味もここにあります。
作者たるもの説明しない。そのことをさとり、そのうえ自分なりのスタイルを獲得する。そんな人のことを世の人は表現者あるいは芸術家と言います。
芭蕉も蕪村も、モーツァルトもベートーベンも、黒澤明も小津安二郎も、そして長新太も五味太郎も、おなじ地平に立っています。

切りつめた表現とは、説明とは無縁で、自然なながれのなか軽やかな省略や飛躍の世界。そのうえ見る者、読む者が省略や飛躍を気にすることがない。ないどころか省略、飛躍によって受け手の心が動き出す。
感動とは心がおおきく動いたと感じたこと。自分の心が動く。それがおもしろいの本質です。
日本ではおもしろいが見くびられてきました。
小説でも俳句でも音楽でも映画でも、もちろん絵本でも実はおもしろいが最優先です。
おもしろいが核。すべてはおもしろいからスタートします。おもしろくないのに次を読もうとするわけがありません。
すぐれた作品とは、あなた個人にとってのはなしです。
あなたの心が大なり小なり動けばその作品はあなたにとってすぐれた作品です。
社会や世間の評価はまったくというか完璧な参考意見でしかありません。
おもいきり言えば、参考にしないくらいがちょうどいいのかもしれません。

説明しない、言い訳しない。絵本も斯くありたいものです。
ところが多くの絵本はそうなってはいません。なんと説明的な絵本が多いことかあきれるばかりです。
多くの大人は、説明しないと子供はまよい、わからなくなる、だから説明するのだと思っている。
これは誤解です。子供は分かる分からないに頓着していません。気にしているのは一部の大人だけです。
分かる分からないを気にしていたらあかちゃんは生きていけません。

昨年二月、新刊の『チーター大セール』をもって帰りました。
するとこのシュールでナンセンスな『チーター大セール』を満一歳の孫が気にいったとのこと。娘の話です。
この絵本をどうして気に入ったのか、それは私にも、その子の母である娘にも、だれにも分かりません。まあその子の個性というしかありません。
こういったエピソードはわたしの身近にいくらもあります。
子供がどんな絵本を好きになるか、だれにも分かりません。きっぱりそう思ったほうがいい。
そのほうがあなたと子供の生活はたのしくなるし楽になります。
平均的な人間などどこにもいない。考えてみれば当たり前のことです。
しかし人間は何かにつけ物事を一般化しがち。
平均的な一歳児、平均的な三歳児などどこにもいないのに、ついいるような気になってしまう。あげくに自分の子供もそんな目で見てしまいがちです。

絵本選びに子供の年齢が関係ないとすると、どう考えればいいのか。
ここに、子供や孫にどんな絵本がいいのか、と迷っている方へおすすめの方法があります。
自分がおもしろいとおもった絵本を選んでください。あなたの好みで大丈夫です。
平均的な人間もいなければ、平均的な子供もいないのですから。
三歳児にぴったりの絵本とか、五歳児に適した絵本などもともとないのです。幻想です。
意外におもわれるかもしれませんが、大人がおもしろいとおもった絵本を子供もおもしろいとおもう確率は実は高いのです。
理由は二つあります。
大好きなおかあさん、おとうさん、おばあさんやおじいさんがおもしろいとおもって読んであげる。
するとなにかしら伝わる。
そう考えてなんの不思議もありません。
それに同じ遺伝子に連なっているわけです。
いくらか趣味が似通っていてもこれも不思議ではないでしょう。
なにしろおもしろいに大人も子供もありません。
親は後姿を見せて育てろ、と昔からいうではありませんか。
あなたがおもしろいとおもった絵本でなにも問題はありません。
問題どころかすがすがしい限りです。
繰り返すことになりますが、先ほどの五味さんの文章の俳句のところを絵本に置き換えて、最後にします。

絵本って説明しない、言い訳しない、ただ言い切っている。丁寧でありながら実にシンプル。くよくよなんていうものとは無縁。うん、そういうのいいな、惚れちゃうぜ、という感じ。
ごく限られたもののいい方で、かえって物事のバックグランドを広大に見せてくれる特質。切りつめた表現からうんと多様な解釈が成り立つようなしくみ。だから絵本は個人の感じ方を一切否定しないし、作者は作品についてはこまごま説明する意志はない。勝手にわかってふくらませればいいよ、という感じだね。

こんな大人がたくさんいるといいですね。
子供にとっていい風が吹く社会になりそうです。

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