絵本には二種類の絵本があります。
一つは文章に説明のような絵がついている絵本。単に文章のさしえのような絵本です。「さしえがカラーだ」という絵本。
おおくの絵本はこれです。
このさしえ絵本に読者の想像力を喚起させる力は期待できません。
文章だけで充分想像できるのに、カラーのさしえがついている。そんな絵本に人の想像力が入り込む余地などありません。昔話絵本によくあるパターンです。
昔話しはもともと話しを聞くだけで想像力が羽ばたくように語られてきたのです。だから絵が必要かどうか。
もう一つは想像力を喚起させる絵本です。そういった絵本があります。
どうやったらそんな絵本をおおくの絵本のなかから見分けることができるでしょうか。
簡単な方法があります。
だれかに絵本を読んでもらいます。あなたは目をつぶって聞くだけ。そのとき文章の意味がつかめず、作者に対して「あなた、なにをいいたいのですか」とおもったら、この絵本はいけます。
そして今度は目を開けて絵を見ながら読んでみてください。いろんな発見があります。あなたの想像力は活発に動き出します。
請け合います。
この観点で絵本をみなおして見ると絵本にたいする考え方が一変します。
こんな方向性をもった作家は限られています。五味太郎さん、佐々木マキさん、高畠純さん、あべ弘士さん、いとうひろしさん、長谷川義史さん、飯野和好さん、元永定正さん、谷川俊太郎さん、内田麟太郎さん、中川ひろたかさん。
しかし代表はなんといっても長新太さんです。それも文も絵も長さん作の絵本の場合はことのほかです。
たとえば『ごろごろにゃーん』『ぼくのクレヨン』『なにをたべたかわかる?』『キャベツくん』『ゴリラのビックリばこ』『みみずのオッサン』。
どれをとっても目をつぶって文だけ聞くとチンプンカンプンです。内容を理解するのは不可能でしょう。
とうぜん絵本ですから絵がついています。絵を見ながら文を読んでみると文だけのときほどの違和感はありません。といっても文だけのときと比べるとすこし違和感が薄らいだと言うぐらいです。
なぜすこしかというと、文だけ読むとチンプンカンプン、絵本として読んでもあいかわらず長さんがなにを言いたいのか分らないが続くからです。
この分らなさ、ここに長さんの絵本の魅力があります。
絵本の醍醐味があります。
児童文学でも文学にしても文章は散文です。散文を書く人は文章だけで読者が風景や情景を想い描けるように訓練をつんできました。
読む人の気持を前へ前へとすすめ、後戻りさせない。
ここが肝心なところです。絵を頼りになどしていません。
長さんの絵本の文はもちろん散文ではありません。絵本のためにまったくあらたに作られた文章です。
この長さんの文体は絵本にとって画期的だったといっていいとおもいます。
文学者は文章だけで風景や情景を想起させるように訓練してきました。児童文学者にこのような絵本の文体を求めるのは酷なはなしなのです。
だから谷川俊太郎さん、内田麟太郎さん、山下洋輔さん、中川ひろたかさんの登場ということになりました。
そんな文体を獲得したうえに長さんは自由自在な線と目を見張る色使いの絵描きでした。だからあんないいかげんで気ままな文が絵本の文章として成立してしまったのです。あの絵がなくては始まりませんでした。
ちなみに「いいかげん」はぼくのまわりでは最高のほめ言葉です。例をあげると「いい湯かげん」です。
先日、中学二年の女の子が職業体験で二日間絵本館にきました。
その女の子にこの方法で五味さんの『いっぽんばしわたる』を読んでみました。目をつぶって文だけを耳にすれば「なんのことだ」という絵本です。「ならんでわたるってこんな絵なんだ」と言いながら笑った、その女の子の笑顔を思い出すと嬉しくなります。
みなさんもぜひ試してみてください。
頭のなかで想像力が駆けめぐっていることを実感できます。