いずれ芽がでる 花が咲く

子どもに対する二つの見方があります。
一つは人間生まれたときは白紙、まっさら。
だからなにくれとなく良いものを与えなくてはならない、と考え。
のんびりしていると大事な時期を逸してしまう、とおもい。
なるべく早くから、なるべく本物をと追いたてられるように「なるべく」教に入信してしまうタイプと。
もう一つは、人間はその人なりにある資質を持って生まれてきている、という考え方。
だから子どもの生まれながらにもっている才能や気質が発芽するのを気長にまとうとおもうタイプ。
親がどちらの考え方に立つかで、子どもの将来に、ことに親子関係には大きな影響をおよぼすことになるのではないでしょうか。

わたしも3人の子どもが幼いころは、どちらかというと「まっ白」派だったのですが、彼らが育つのを見るにつけ、また50歳をすぎて知人や友人の孫や子どもを見るにつけ。
子どもたちはいろいろなものを持って生まれてきているんだなあ、とおもうようになりました。
なにしろ生まれたそばから「うれしい」とか「いやだ」とか、はっきり表明している様子を見ていると、そうおもわずにはいられません。
もちろんすべてが遺伝だとはおもいませんが、しかしその子の持って生まれた資質を重視するか、それとも資質とは無関係に親が「良い」とおもうものを与え続けるのか。

5歳の子どもにピッタリの絵本がある。
だから「うちの子にその絵本を与えてみよう」と思って与えてみると、子どもは無関心。すると親はどうおもうでしょうか。
5歳の子どもにピッタリという評価の高い絵本(そんな絵本があるわけ、ないのですが。
もしあったらそのピッタリの理由を具体的に説明してほしいものですが)に反応しない我が子。
すると。「この子だいじょうぶかしら…」「わたしの育てかたになにか問題があったのかしら……」になりませんか。
しらないうちにだんだんとストレスを受けいれているのではないでしようか。このようにして情報社会はストレスをうみだしていくのです。
反対に、子どもの年令に関係なくいろいろな絵本を読んであげて、いくなかで「へえー、うちの子こんな絵本がすきなんだ……」とか「上の子と下の子とではこんなに好みが違うんだ!」というふうに子どもを見ていけば。
親はおだやかになり。
子どもは「すき」だとか「おもしろい」を表明しながら、おのずから自分の趣味趣向を発見していくものです。
読書のたのしみの一つは「自分を再発見する旅。まだ見ぬ自分に出あう旅」ではないでしょうか。
自分をいろいろな視点から見る。
自分を客観視できる。
だから読書は知的なのでしょう。
そんな第1歩に絵本がなれればとおもっていますが。

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