絵本とは、一般的には精神や心情に訴えるものだと思われています。
しかし、長さんの絵本はこういった枠を超えた存在です。
もし、長さんの絵本が一般の「絵本」と同じように捉えられているとしたら、それは、多くの大人が考えている「絵本は道徳的なもの、感情や精神に訴えるものだ」という、なにごとも習慣のなかでしか考えることができない人にありがちなことです。
長さんの作品の深い部分に触れた考えではありません。長さんの絵本は、わたしたちの論理とは違う世界で動いているのです。
長さんの作品は、分明や教育など人間がいままでかたちづくってきた世界、それ以前に存在していたエネルギー源のようなものを感じます。
年齢や性別を超え、物質とエネルギーのみが存在する、非常に原始的な生命のかたちそのものです。
それらは互いに影響しあい、常に別のものに変化していく。胎児のように、あるいは顕微鏡で見る細胞の動きのように。自然界そのものです。「対立」ではなく「対比」、人間が造った倫理とは無縁な世界です。
そして長さんのストーリーは「原始的エネルギー」を視覚化したもののようです。
長さんの絵は、単純化された絵ではありません。大人が大好きな分析に基づく絵ではありません。
例えば、彼の「象」は「象」を思ったとき、その瞬間にうかびあがったイメージそのままのものです。解剖学を学んでうまれたものではありません。
彼が描く「動き」や「かたち」も同じです。ことに「かたち」には動的なエネルギーが感じられます。輪郭のみの絵(線画)にさえ、その内と外にある動的なエネルギーを感じます。彼の色使いは、自然界の色と似たはたらきをして、審美や美的な装飾ではなく、ただシグナルを発するために使われているように見えます。
長さんの作品は永久機関であり、すべての絵本がひとつの作品なので、わたしがどの本にコメントしても似たようなものになるでしょう。
今、「くまさんのおなか」を見ていますが、とても暴力的絵本なので、「くまさんのレイプ」ともいえるかもしれません。
しかし、絵は暴力を連想させるようなことはありません。色やかたちに大変な色気があり、大声で叫んでいるようです。感じるのは「和」で、「抵抗」がありません。騒音と静寂が、同じ棒の両極に存在するかのようです。
それはグラデーションのように小さな行為から始まり、ページごとに大きくなり、しまいには宇宙的規模にふくらんでいく。まるで森羅万象が、永遠に奏でられる音楽に変化したかのように…
マイケル・グレイニエツさんが選ぶ 長新太さんの絵本
- 『くまさんのおなか』学研♦1999年