編集長の直球コラム

長 新太さんをいたむ

今年六月二十五日、絵本作家の長新太さんが亡くなられました。
享年七十七歳。旺盛な創作活動が続いていただけに、じつに惜しまれる逝去です。
長さんは、絵本に新しい世界をもたらした作家です。
長さん以前と長さん以後では絵本の世界は一変したと言っていいと思います。

八月十二日、五味太郎さん、あべ弘士さん、荒井良二さん、飯野和好さん、高畠純さん、中川ひろたかさん、長谷川義史さんらによって長さんをしのぶ会がもたれました。
絵本にかんしてはプロ中のプロである当代を代表するこれらの作家たち。
その作家達が、長さんに対する敬愛と感謝を渋谷の代官山で一夜語りあいました。
みなさん直接教えを受けたわけではありません。
作品のうえでのことです。
なんらかのかたちでみな長さんにお世話になった。
そんな気持のあつまりでした。
わたしが知っているだけでも、佐々木マキさん、佐野洋子さん、いとうひろしさん、マイケル・グレイニエツさん、実におおくの絵本作家が敬愛し憧れた長新太さん。
こんな絵本作家はほかにはいません。
他をもって替えがたい存在でした。
まさに絵本界の巨星墜つ、という言葉を五十六歳の人生ではじめて実感しました。

しかしあまりおおげさないいかたはいけませんね。
それこそ長さんがもっとも嫌ったことです。
おおげさだったり、ぎょうぎょうしかったり、はれがましかったり、そんなことを生理的にきらった長さん。
そういった気質が自由自在な長さんの絵本のなかにはいくらもかいま見えます。

高畠純さんの大学に五十代で入学してきた方がいるそうです。
その人は以前幼稚園の先生とのこと。
その方が幼稚園の先生のとき、子どもたちに絵本を読んであげる。
すると長さんの絵本が圧倒的な人気だったそうです。
ご本人は柿本幸造さんの絵が好きで、はじめは長さんの絵本にほとんど興味をもってなかったそうです。
心がうごかなかった長さんの絵本を子どもたちに請われるまま読んであげているうちに、長さんの絵本の真価がだんだんみえてきたそうです。
そんな話を高畠さんから聞きました。
絵本にかんしてはプロ中のプロの絵本作家たちから羨望のまなざしで見られ、子どもたちからも絶大な人気だった長新太さん。
これだけでふつうは鬼に金棒です。
にもかかわらず先生や親からの人気はさほどえられなかった。
なぜでしょう。
このことがひも解ければ絵本だけでなく子どもを取り巻くことがらにおおきな展望が開けることになるのではないでしょうか。

じつはわたしもその先生と同じような経験があります。
今年三十になった長女が三歳のころ、娘をひざにおいて当時旺文社から出ていた長さんの『ゴリラのビックリばこ』という絵本を読んでいました。
休日の昼下がりでした。
すると台所で昼食の仕度をしていた妻がおおきな声を出して笑うのです。
「どうしたの」と言うと、「だって、あなたの読んでいる絵本がおもしろいものだから」との答えでした。
そのときのわたしの偽らざる感想はというと、「へぇ、この絵本のどこがおもしろいのかな」だったのです。
おなじですね、多くの大人と。
考えてみると、そのときのわたしはニブチンでした。
わたしより妻のほうが絵本の出版には向いていたのかもしれません。
自分でいうのもなんですが、絵本にかんしてはそれからずいぶん成長したものです。

絵本はいきなりはじまって、いきなりおわってもいい、特異なジャンルです。
そんなジャンルは他にはありません。
なんの断わりもなく、家が話し出しても、山からチョコレートがふきだしても、絵本ではなにも問題にしません。
なにが原因か問いません。
絵本に因果律はなじまないのです。
いや、じゃまです。
子どもたち、ことにあかちゃんにとって周りは分らないことだらけです。
分らないことがあるからと不安になるあかちゃんはいません。
分らなくてもいいのです。分からないけど心地よかったり、なんだか気持がうきうきしたり、そんな心のうごきがだいじです。
そんな力をもった絵本。
子どもも大人もそんな絵本に出会えるのが絵本の醍醐味です。

分からないけどおもしろい。長さんの絵本の魅力はここにあります。
長さんの絵本から受ける印象は「はっきりいってよく分らない」です。
昔のぼくや高畠さんの大学の幼稚園の先生が「えぇ、この絵本のどこがおもしろいの?」とおもったのは、長さんの絵本から受ける印象が「よく分らない」だったからです。
子どもを卒業して大人になると、なにごとも因果で物事を考えるようになります。
だから分らないは即不安、つまりおもしろくないになってしまうのです。

近代は因果律の時代といっていいでしょう。
科学のみならず、唯物史観も心理学も経済学も、もちろん病気もすべての結果には原因がある。
そう考えるのが因果律の世界の考えです。
原因に肉薄できれば成功、そう考えてきました。
それで大きな成果も得てきました。
しかもその勢いで人間の気持や感情、心の襞の襞まで原因と結果、因果律で考えるようになったのが今のわれわれです。
大人の心が分ってきた。だから子どものことならなおのことだ、と思うようになったのです。
その考えにおおきく貢献したのが精神分析学や発達心理学でしょう。
はたしてそうでしょうか。人間の心のことも科学ですべて捉えることができると考えていいのでしょうか。
これらの学問で人間の心のかなりのことが分った、と考えてみてください。
すると小説も映画もあがったりということになりはしませんか。
人間、因果律どおりにいかない。だから今でも小説も映画も、つまり芸術一般が現役なのです。
人間一人ひとりには、一般化も平均化も均一化も、通用しません。だから個性というのではないでしょうか。
一般化、平均化、均一化が大人の頭におおきな位置をしめてきた。
だから他の子とすぐ比べたがる親になってしまう。
親子にとって不幸のはじまりはここにあります。
子どもの年齢に適した絵本がある。まさしくこれこそ平均化、一般化そのものではないでしょうか。
子どもの個というものをまったく無視した考え方です。
そういった思いこみが親の頭を支配してきました。
これも因果律という考え方から生まれました。まさに近代の病です。

絵本も芸術一般です。ことに子どもは因果と無縁の世界で生活しています。
だから因果律だけで子どものことを考えると見えるものも見えなくなります。
ところが子どもが読む、あるいは読んでもらう本や絵本をつくる大人の考えはいまだに因果律が主流です。
だから大人から高い評価をえていても、子どもには人気がない絵本はいくらもあります。
結果、優れた絵本をちかごろの子どもは喜ばない、となげく大人がいくらも出てきます。
起承転結、因果律のはっきりした絵本をほんとうに優れた絵本といえるかどうか。

ここに、惜しくも同じく今年六月に亡くなられた倉橋由美子さんの『偏愛文学館』という本があります。
この本にこんな記述がありました。すこし長くなりますが、お付き合いください。

「しかしカフカは曖昧でとりとめのないことを書いているわけではありません。
宗教のように神秘的でもなければ、寝言のように支離滅裂でもないのです。
絵で言えば、ダリの絵に似ていて、形も色も明確で精密で、何かがはっきりと描かれているのですが、全体として見るとそれが何を意味しているのかわからない、といった印象を与えます。
実は優れた絵も小説も、みなそういうものではないでしょうか」。

「優れた絵も小説も」のところに「絵本」を加えて読み直してください。
要は「全体としてみるとそれが何を意味しているのかわからない、といった印象を与えます。
実は優れた絵も小説も(絵本も)、みなそうものではないでしょうか」。

ここです。
まさしく長さんの絵本です。
知的好奇心は「全体としてみるとそれが何を意味しているのかわからない、といった印象」からスタートします。
分からないことをたのしめる資質から好奇心は生まれるのです。
ところがほとんどの絵本は分らせようという因果律の世界から出発しています。
なにごとも分かった気になって「知っている、知っている」と言いつのる子ども。
知ったかぶりの子どもほど気持の悪いものはありません。
俗にこまっちゃくれたガキといいます。
だから知的好奇心にとっては最悪なのです。

長新太の絵本は因果律を無視します。混沌へのいざないといってもいい。
じつに好奇心はこんな土壌で育つのです。
長さんの絵本が優れた絵本である所以はここにあります。
くりかえしますが、「優れた絵本は、全体としてみるとそれが何を意味しているのかわからないといった印象を与え」るものです。
この見方ですべての絵本を見直してみるとどうなるでしょう。
絵本の世界が、子どもに対する考え方が、がらっと変わることになるのではないでしょうか。

おもしろい絵本。
おもしろい絵本をつくる。それだけでも作家としてはたいしたものです。
ところがそのうえの世界があるのです。
分らないけどおもしろい絵本。
ここに長新太の至芸がありました。世界的に見ても稀な作家でした。
世界が長新太を発見する日はいつになるのでしょうか。

ほんとうにかけがえのない人を失ってしまいました。
残念ですがご冥福をお祈りするしかありません。

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